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「男女の情? それは心情の問題だ。どうやって証明する?」
「ここにラルスの私的な手記がある。内容を確かめればいい」
 そう言ってザリスト大佐が手帳を取り出すと、すかさずトアラへ放り投げ有無を言わさず受け取らせる。人のプライバシーを無断で詮索する行いにトアラは眉を顰めるものの、議論を停滞させる訳にもいかないため渋々中を開く。諜報員なら人のプライバシーなどそれこそ日記程度では済まされないほど踏み込む事がザラにあると思っていたソフィアは、意外なほど潔癖なトアラの態度にいささか驚きを隠せなかった。流石に親友で故人のプライバシーに踏み込むのは、トアラと言えども人並に拒否感があるようである。
「それはラルスが調査用の覚書に使っていたと思われるものだ。初めは極地道な調査の記録が綴られているが、ある日を境にほとんどの内容がオーボルトの事だけになっている。それも調査対象としての記録ではない。読めば分かるだろうが、特に後半は完全に感傷的な文面になっている。果たしてこれは、予め自分が軍部に謀殺される事を察知し、自分の捜査情報を漏らさぬようにするための偽装だろうか? 私にはそう思えない」
 文面を無言で追うトアラの表情は非常に厳しく苦虫を噛み潰したかのように歪んでいた。それは自分自身でもザリスト大佐の指摘が見当違いではないという確信を持ってしまったからだろう。
 しばらくの間、トアラは無言で手帳をめくり続けていたが、やがて自らの中で整理がついたのかおもむろに手帳を閉じテーブルの上へ置いた。だがザリスト大佐が軽く首を傾げ視線を送ると、トアラは一度鋭い視線を返しつつテーブルに置いた手帳を再び手に取り上着の中へしまった。
「手を下したのはどこだ?」
「御存知の通り」
「軍部が特開局の暴走を止められなかったという事か」
「正確には、金を食い潰すだけの寄せ集めがそんな大それた行動を起こすとは、将校以下誰も予想していなかっただけだ。当時、特開局は存亡の危機に直面していた。その打開策として、竜族に決定的な効果を及ぼす竜殺しを提案し研究を推し進めていたのも事実だ。折しも銀竜があちこちで騒ぎを起こしていたから、採用されれば局の評価は見直される。だが、軍部は当初竜殺しの効果について非常に懐疑的だった。そのため、試作品が完成しても局の廃止案は見直される事は無かった。そこで目をつけたのが、当時黒鱗の監視を行っていたラルスだ。無論、軍部の承認どころか諜報部の了解も無い。ラルスにしてみれば青天の霹靂だっただろうな」
 ザリスト大佐が思い出し笑いをするかのように口元を緩ませる。だが、事の結末を知っているだけにソフィアもトアラ同様愉快な気持ちになれるはずもなく、無意識の内にトアラのように眉を顰めていた。
「だが、局の命運を賭けたはずのラルスは黒鱗ではなく見ず知らずの女を監視しているだけ。その女が実は竜族であることを知るものの、ラルスは竜殺しの試験について非協力的。それだけなら納得出来るが、ラルスはオーボルトに手出しする事自体を妨害して来た。いよいよ追い詰められた特開局は、遂に最悪の選択を選んでしまった。そこの詳細は私にも伝えられていないが、概ねそんな所だろう。後はお前の知っての通りだ」
「本当にそれで全てか? これだけの事を軍部が仕出かしておきながら、諜報部がおとなしくしているはずがないだろう」
「それなりに代価は支払わされたさ。銀竜にこそ通用しなかったが、これまでの武具とは決定的に異なりあらゆるものを切り裂く事が出来る竜殺し、それがお前の手にも簡単に支給されているだろう? 本来なら軍部が独占出来たはずの代物が、どこか架空の課を経由し諜報部に行き渡っている。費用対効果にうるさい予算管理部にしてみれば、これほどの屈辱は無いだろう。そして諜報部にしてみれば、不祥事を起こしたラルス一人でこれだけの利益が手に入るのだから文句は無い。後はトアラ、お前個人の動向にさえ注意しておくだけだ」
「決着が付いたはずの事を探られぬよう、あえて私だけに諜報部は伝えなかったという事か」
 一瞬、ソフィアの脳裏に無駄足という言葉が過ぎった。トアラはラルスの無念を晴らすために今まで調査を続けてきたのだが、その真犯人が軍部という事だけでなく、自分が所属している諜報部が真相を隠していたのである。諜報部がどういった組織なのか正確に知っている訳では無いにしろ、少なくとも個人でどうこう出来るような薄いものではない事ぐらいは容易に推測出来る。諜報部がそうと決めた真実は揺らぐ事は無い。そのためトアラが望む真相を公にする事や犯人への報復など実現出来るはずがない。むしろ、これ以上踏み込む事は自らの生命を危険に晒す事にすらなりかねない。
 果たして今のトアラの心境は如何なものなのだろうか。そもそも下手に口を開くつもりは無いが、トアラにどう言葉をかけてやれば良いのか分からなかった。ここでグリエルモを叱り付ける様に声を張り上げたとしても、いきなり斬りかかられても平然としているような人間には微風と変わりは無いだろうし、それだけで組織が動くはずも無い。ただ、一時的な感情の捌け口になるだけでトアラには実質何も影響を及ぼさない。
 ここでトアラはどう動くのだろうか。普通に考えれば、この時点で深入りする事はやめて身を退く事が賢い選択である。しかし、トアラがあっさりと聞き分ける姿も出来れば見たくないのが本音である。どちらにしても、後味の良くない展開になる事は避けられる雰囲気ではない。
「ザリスト、お前は結局どういう終止符を打つつもりだ?」
「私はある一点を除いて発想は柔軟だ。銀竜と事を構えるつもりもなければ、ましてや竜族と関わりを持った人間を皆殺しにするなど愚の骨頂。命令を下したのは保守派の老害共だ。幾らでも言いくるめる事は出来る」
「なら、何故これだけの部隊を動かした? 私一人を脅すだけにしては、いささか大げさ過ぎるが」
「脅しだけなら、わざわざお前に直接会う必要は無いさ。トアラ、私とお前の決定的な違いは、私は必要に応じて公私を混同する人間という事だ。お前のように、敵討ちを律儀に個人で地道に進めたりはしない」
 おもむろに立ち上がるザリスト大佐。思わず警戒の表情でそれを睨むトアラだったが、ザリスト大佐の視線はとうにトアラを外れていた。
「グリエルモ君に竜殺しは利かない。だが、オーボルトは違う。それは既に実証済みだ」
「ザリスト、お前まさか……」
「そうだ。私は弟を誑かしたオーボルトを殺すため軍を率いた。トアラ、お前に監視をつけておいたのは正解だったよ。こうも早く憎き雌蜥蜴に巡り会えたのだからな」