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「ソフィア!」
「はいよ! グリ! オーボルト! ここから出るわよ! 元の姿に戻りなさい!」
「おお、我が太陽の命なら喜んで大空を駆けよう。風よりも速く、星よりも高く」
「猿のくせに……でも怒られたくないですし……」
 困惑するザリスト大佐と周囲の軍部の人間達を他所に、ソフィアの号令でグリエルモとオーボルトがみしみしと音を立てながら輪郭を歪ませる。服を内側から破るほどの勢いで全身を膨張させ、骨格や体表を変質させる。瞬く間に二人は天井を突き破るほどの巨躯を揺らす竜の姿へ変貌を遂げた。
「グリ、上まで風通し良くして! オーボルトは私とトアラは守りながら空まで飛んで!」
「『アアー、コノ世デ最モ熱ク激シイ炎ガ俺ノ胸ヲ焼キ焦ガスー。ソウ、今ガ正ニ食ベ頃サー』
「別ニ死ンデイイノニ……イエ、何デモアリマセン。私ノ手ノ下ヘドウゾ」
 銀竜の姿に戻ったグリエルモは一度大きく背伸びをし室内を強引に広げる。そして心地良さそうに唄いながら翼を広げると、天を仰ぎながら深く息を吸い込んだ。
「何をしてる! オーボルトを逃がすな!」
 人間から竜の姿へ戻った事で室内の許容量が一気に限界を迎える。その反動で建物の内装が軋み崩れ始め、ザリスト大佐や他の軍人達は破片に巻き込まれ周囲の確認が出来なくなる。それでもザリストはオーボルトを逃がすまいと瓦礫の中から声を張り上げて指示を送る。だが、連携が取れないまま寸断された彼らの混乱は大きく、己の状況を確かめるだけで精一杯だった。
「セーノ、『モドカシイ想イヲ此ノ声二乗セテ』、ンンーギャッ!!」
 気の抜けるような掛け声の直後、グリエルモは空を仰ぎながら吸い込んだ空気を吐き出した。数秒に渡って吐き出された空気の塊は牙との摩擦熱で真っ赤に輝き、まるで巨大な火柱のように船底であるこの場から船板を何枚も一瞬で蒸発させ、文字通り空まで貫いた。まるで大砲を垂直に撃ち出したかのような破壊力だと、その場にいたソフィアとオーボルト除いた全員が戦慄する。
 想像も付かないシチュエーションで甲板を貫かれて、船底での異変に気付かない者はいない。周囲に充満する埃や破片が落ち着くよりも先に、船中の人間が一斉に騒ぎ始めた。数で来られた場合、全員が竜殺しを持っていると仮定するとグリエルモ以外は非常に危険な状況になる。もはや一刻の猶予も無い。
「ソフィー、チャント言イツケ通リニヤッタヨ!」
「次はそこの階段! 全部引っこ抜いて!」
「アイアイ」
 グリエルモはソフィアに頼まれる事が嬉しいらしく、機嫌良さそうに鼻歌を交えながら手摺りを掴むと、まるで果物の筋を取るかのように階段そのものを壁から引っこ抜いた。既に階段からこちらへ向かっていた者達が慌てて付近の部屋へ飛び込んだりと、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている。普段の訓練では、こんな怪物を想定したものは行っていないのだろう。トアラはザリスト大佐に対し、私情を挟むとろくな事にならないと言ったが、まさにこの状況が的を射ている。私情だからとこそこそせず上の了解をきちんと取っていれば竜族を想定した訓練もやれただろうし、本物を目の前にして慌てふためく事も無かったはずだ。
「僕ノ心ハ今ー、小サナ妖精ニ奪ワレ彷徨シ続ケテイルー、アア、ドウカオ願イダカラ、僕ヲ静カニ眠ラセテオクレー」
 グリエルモは唄いながら引きちぎった階段を振り回し、手当たり次第の壁を叩きながら笑い声を上げている。久しぶりに元の姿に戻って思う存分動けるから、羽目を外しているようにも思われる。けれど、これだけ嬉々としながら暴力を奮い、それを見ているオーボルトも何の違和感も感じていない姿には、竜族が持つ人間との根本的な違いを感じずにはいられない。
 やっぱり普通の人間なら危険な生物だと思うわね。
 改めてソフィアは自分の感覚が世間一般とどれだけかけ離れているかを自覚し、溜息を漏らした。
「オーボルト、今の内に飛んで。軍の連中にまとまられると分が悪いわ」
「コノママ握リ潰セバ……」
「何? 何か言った? 時間無いのにふざけてると承知しないわよ」
「……何デモアリマセン」
 オーボルトに左腕を水平に構えて貰い、そこへトアラと並んで腰掛ける。そして更にその上から残った右手で屋根の役割をさせる。まだ周囲はグリエルモの凶行で慌てふためいている。突破するのは今がチャンスだ。
「げほっ、げほっ。ああもう、埃がすんごい降ってきた。何よこれ」
「干し草のようだな。荷物に飼料でもあったのか。先ほどの火柱で焼け焦げたと見られる」
「ま、これも煙幕には丁度いいか。グリ、遊んでないで行くわよ! ボーッとしてると置いてくからね! さ、オーボルトも先に飛んで。時間ないから」
「グリエルモ様ト一緒ジャナケレバ私ハ……イエ、スグ飛ビマス」
 オーボルトは黒く大きな翼を広げると、浮力を確かめるように二度三度はためかせる。狭い空間に大量の塵や埃が充満している中で空気をかき回せば、当然埃は積もったものまで舞い上げられ、より周囲の視界を厚く閉ざし不明瞭にする。人間の感覚ではどうにかなるようなものではないこの状況下、しかし鼻の利くグリエルモだけはあっさりとこちらを見つけてやって来る。
「アア、ソフィー。行カナイデオクレ、目ヲ離スト君ハ夜空ノ月ニマデ行ッテシマイソウダ」
「グリエルモ様、オーボルトモ……」
「いいから、早くしなさい。ほら。飛んで」
 こちらから積極的に働きかけなければ、すぐにこの二人は関係の無いことをし始める。それを良く知るソフィアにとって二人に逐一指示を出すのは当然の事である。状況を察する事の出来ない竜族には、とにもかくにも明確な言葉が必要なのだ。
 だが、その時だった。濃霧のように充満する塵埃の中から、不意に人影が一つ飛び出して来た。視界などほぼ無いに等しい状況だというのに、その人影は真っ直ぐとこちらへ向かってくる。
「逃がすかっ!」
 そう叫びながら鞘を捨て剣を構えたのはザリスト大佐だった。口元を破った袖で覆い目もほとんど見えてはいない。しかしこの居場所が分かったのはおそらく自分の声のせいだとソフィアは思った。
「死ね、黒鱗!」
 猛然と向かってきたザリスト大佐は、最後の一歩で大きく跳躍すると、構えた竜殺しを頭上から着地する足の先まで一気に振り抜いた。同時に響き渡る金属を研磨するような甲高い音。ザリスト大佐が振り抜いたその空間だけ塵埃の層が綺麗に分断される。
 柄越しに剣が獲物を捕らえた感触が伝わってくる。ザリスト大佐は両腕に走る突き刺すような痺れに表情を歪ませながら、埃と涙にまみれた目をゆっくりと開ける。
「小生、別ニソコハ痒クナイヨ」
 分断された埃の中に居たのは、首を傾げる銀色の竜だった。