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 誰の事だ、懐かしい人って。
 そうソフィアがいぶかしんでいると、トアラが肩を叩き後方を指さす。その先、目測でもまだ相当の距離がある事が窺える位置ではあったが、そこには見覚えのある造形の戦艦が波を切り裂きながらこちらへ向かっていた。竜族の飛ぶ速さなら距離はかなり稼いだと思っていたが、自分達に配慮し加減しながらではさほど速度は出ていなかったようである。
「黒鱗に時間を取られ過ぎた。あまり悠長にはしていられない」
「その通りね。早いところ片付けてしまわないと。グリ、急いで。ボヤッとしてないで」
「ウムウ、シカシソロソロダヨ。嵐ガ来ルノハ」
 何を根拠にそんな事を言っているのか。嵐など何の予兆も無く唐突に起こるものではない。天気が下り坂に向かっているならまだしも、今の天候は少し上を向いただけで目が眩むほどの快晴だ。
 先程から竜族だけが反応がおかしい。しかもアヴィルドにいたっては顔色が真っ青である。それはきっと元の姿に戻っているヴェルバドも同じだろう。二人はグリエルモにこそ散々に虐げられては来ているが、紛れもなく竜族である。その二人がこれほど恐れるとは、一体何がやって来るというのか。
 竜族が恐れる程なら自分達も危ないのではないか。そう次第に警戒心を強めていた時だった。
「……え?」
 突然、幕が下りたかのように周囲が暗がりに包まれる。予告のない明暗差に視界が一時的に塞がれ体が緊張感で凍り付く。
「これは……一体何だ?」
「曇っ……てる?」
 周囲を見渡すと、あれほど澄み渡っていた青空はいつの間にか消え失せ、厚い黒雲に包まれた曇り空に変わっていた。どれほど早い雲でも、こんな一瞬で空中を覆い尽くす事など起こり得るはずがない。
 程なく、今度はまるで上から叩きつけるような激しい雨が困惑する二人をあざ笑うかのように降り出してきた。あまりに激しい雨のため、水同士が擦れ合い霧が立ちこめて視界が隠る。異様なのは、それほどの雨にも関わらず自分達の周囲だけには全く降っていなかった。オーボルトの体で遮られているのではなく、頭上の雲だけが一粒の雨も漏らしていないのだ。
 何か自分達の知識の外にある得体の知れないものが介在しているとしか思えなかった。天候を意図的に操作するなんて人間に出来るはずがないからだ。グリエルモはそれを懐かしんでいるように見えるが、果たしてそれは本当に害を為さない善意の存在だからなのか、それともいつもの危機感の欠落なのか判断に悩む所だ。
「アノ……ドウカ失礼ノナイヨウニオ願イシマス」
「何が? ねえ、誰が来るっての?」
「グリエルモ様二音楽ヲ教授イタシタ方デス」
「それって確か……水の精霊だっけ?」
 直後、自然に口から出たその単語に自ら吹き出しそうになる。文化の違う竜族はともかく、人間にとって精霊など空想の産物で、何かを示唆する時に気取って使うぐらいの存在でしかない。まさか、そんなものが実際に目の前に現れようとしているのか。しかし現に異変の真っ直中に居るため、一笑に付すべきか戦々恐々とすべきか、自信の姿勢に悩む。
「うわ……どうしよう、弟よ。これ、もしかしてバレてしまったのかな?」
「我ハ関セズ。只、愚兄ノ指示ニ従ッタノミ」
「ヴェルバド君? まさか、自分は関係ないと白を切るつもりじゃないよね?」
「アイアイ」
 アヴィルドとヴェルバドは動揺から恐怖へ変わっている。オーボルトを含めたこの三人は、水の精霊にグリエルモは死んだと思わせようとしていたのだから、先程の申し込みだけでなくこれまでの経緯も知られてしまう訳にはいかない。逆に知られてしまった場合、水の精霊が竜族にとって死活問題になるような事を及ぼすようだが、竜族がこれほど震え上がるのだから実在する上に相当恐ろしいものなのだろう。
「こうなれば思い切って逃げてしまうのは……いや、長老に知れたらそれこそ殺されてしまう……。ああ、どうしてこんな事に」
「イッソ兄上ガ一人暴走シタ事ニシテ犠牲ニナッテ下サイ」
「僕だけ死ねっていうのは少々むしが良過ぎないかな? そもそも君の方が不用意に騒ぎを多く起こしたくせに」
「馬鹿ナ兄ヲ持ツト苦労スルネ。ダカラキット、オーボルトハ反抗的ニナッタンダ」
「君ね……さっきから黙っていればべらべらと勝手な事を。いい加減にしないと、こちらにも考えがあるよ?」
「無イ無イ。ドウセハッタリ。本当ニアルナラ、コンナ状況ニナラナイ。コウナッテシマッタノハ兄上ノセイ」
 アヴィルドとヴェルバドがこの期に及んで言い争いに発展しそうな不穏な雰囲気を放っている。竜族ばかりが知っている精霊、そのため人間であるソフィアとトアラはどこか蚊帳の外に置かれている感覚があった。とは言っても、このように激しく天候を操作出来るような存在に関わりたいはずもなく、出来るなら今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
「アッ、来タヨ。オーボルト」
 おもむろにグリエルモはオーボルトを呼ぶ。オーボルトは小さく頷き右の手のひらを広げて差し出す。するとグリエルモはみしみしと音を立てながら全身を軋ませると、見る間に人間の姿に変わりオーボルトの手のひらへ着地する。
「こら、そこの馬鹿共。ロナ殿がいらっしゃるのだから黙り給え」
「えっ? あ、ああ……はい。あの、お帰り戴く事は出来ませんか?」
「君らが誰かは知らないが、色素が見苦しいので帰り給え。ロナ殿が気分を害してしまう」
「くっ……まだ覚えていてくれないのか」
 そしてグリエルモは自らの両手を真っ直ぐ目の前へ伸ばす。まるで出迎えの合図のようだとソフィアは思い、その手をしげしげと見つめていた。
 精霊とは、どこからどのようにして現れるのか。
 黒鱗の二人が怯えるほど、水の精霊とは凶暴で恐ろしいのか。
 グリエルモのそのポーズは一体何の意味があるのか。
 それらはグリエルモへ訊けばすぐに分かる事である。しかし日常では有り得ないこの状況が、普段通り気軽に口を開かせてくれない。トアラ共々、ただグリエルモ動向をただ見ているしかなかった。
「あ……」
 程無くして、思わず小さく声を上げるソフィア。何時の間にかグリエルモの手には、丁度包み込むほどの水の塊が湧き出ていたからだ。突然どこからともなく湧き出したそれはグリエルモの指の間を割って零れ落ちる事は無く、何時までもまるで意志を持っているかのようにぐるぐると循環を続けている。やがて膨張を続ける水の塊が手のひらに収まりきれないほどの大きさになると、おもむろにグリエルモはそこへ語りかけた。
「やあ、こんな遥々よく来てくれたね。お久しぶり」