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「あなたも相変わらずですね」
 グリエルモの話しかけに応ずるように、その水の塊から水音でくぐもった声が聞こえてきた。やや年上の女性と思われる声だが、どこか人間味の感じない独特の調子のあるその声。ソフィアはトアラと顔を見合わせ、これが精霊なんだろうかと頼りなく確認し合った。
 グリエルモの手のひらから溢れるほどの水の塊、それは更に加速的な膨張を始めるとある瞬間に突然小さな音を立てて弾け飛んだ。その周囲に飛散した水滴は渦を巻きながらグリエルモの前方へ寄り集まり、次第に一つの輪郭を形成しながら何らかの形状へ落ち着いていく。
「長老の事は聞いているでしょうに。もう少し落ち込んでいると思ったのですが、そうしている方があなたらしいですね」
 現れたのは、体のほとんどが波に覆われた妙齢の女性の姿だった。先端が曖昧に散る長い髪はまるで河川の流れのようにうねり、うっすらと向こう側が透けて見えるほど組織が薄い。竜族がほぼ人間と同じ姿になれる事と比較すると、輪郭を除いてかなり人間離れした姿である。しかし毒々しさよりも神秘的な清浄さが先行する印象だ。
「小生の傍には常に輝き続ける太陽がいるからね。落ち込む理由など無いよ」
「それよりも、あなたはもう少しオーボルトに感謝なさい。あなたのために一族を裏切ったのよ? もっと大事にしてあげなさい」
「小生は誰にでも優しいよ。博愛主義だからね。オーボルトもそう思ってるよ。ねえ?」
「アイアイ」
 素直に頷くオーボルト。覚えている限り、グリエルモは既に大分オーボルトを蔑ろにしてきたと思うのだが。そもそも万事がグリエルモ第一のオーボルトが反論するはずも無い。
「そうだ。ほら、あれが小生の太陽だよ。ソフィー、紹介するよ。この人が小生の音楽の原点だよ」
「ああ、もう教わることなど無いって言ってた」
「そっ、そ、そんな事を言った覚えは無いよ?」
 グリエルモは珍しく過去に言った自分のことばを否定し慌てふためく。そんな様を水の精霊は穏やかな笑顔で見ていた。まるで母親が子供を慈しんでいるかのような、温かみに溢れた表情だ。彼女にとってグリエルモは出来の悪い息子のような存在なのだろう。これまでの短いやり取りからではあったが、ソフィアには二人の姿がそう映った。
「さて、アヴィルドにヴェルバド」
 ゆっくりと背後を振り向く水の精霊。その穏やかな声に、戦々恐々としていたアヴィルドとヴェルバドは小さく肩を震わせ恐る恐る視線を上げる。
「あなた方はグリエルモを手にかけようとしていましたね。それは長老の命令ですか?」
「そ、それはですね、えーと、誤解です」
「誤解? 長老の命令ではないと?」
「はい。これは……そう、復讐と言いますか、個人的な恨みです。僕はグリエルモに苛められていたので、何とか仕返しをしようと。ねえ、ヴェルバド君?」
「アイアイ」
 二人は水の精霊を前にし、あの竜族然とした態度は影も形も無く肩身を狭めぶるぶると震えていた。水の精霊に何とか真相を知られまいとして言い訳に必死である。しかし水の精霊はそんな二人の思惑などとっくに見透かしているのか、穏やかながらもどこか鋭さを孕んだ視線で二人を見据える。
「グリエルモ、あなたが過去に犯した過ちが未だ巡って来ているようですね」
「面目ありません。どこのどなたか知りませんが、申し訳なかったです。もう過ぎた事なので水に流しましょう。雨天だけに」
 言葉選びはともかく、グリエルモが自分以外の者の言葉に素直に従う姿をソフィアは初めて見た。グリエルモはかつて音楽を水の精霊に習ったと言っていたが、単に音楽の技術を習っただけでなく基本的な倫理観も教えられたのだろう。その時の関係が根強く残っているのか、グリエルモは水の精霊には逆らえないようである。しかし自分とは異なり、主従関係では無く教師と生徒のような信頼関係だ。
「さて、今回の事はあなた達二人の私怨だそうですが。真偽はともかく、私達精霊が竜族との関係を見直す事はとうに決定していますから。私を含め、全ての精霊の総意です。何も知らぬ子供を、恨みつらみを利用して同じ子供に殺させようなどと。大人の責任も果たさぬ上での鬼畜にも劣る所業、精霊は不快感を通り越して強い憤りも覚えています。それなりの報いを受ける事は覚悟はして戴きます」
 水の精霊の顔が豹変する。それは表情だけでなく、造形そのものが変わる強く激しい感情が浮き彫りになった顔だった。最初に見せた穏やかさや温かみはどこかへ消え失せ、傍目からですら背筋が震え上がるほどの不気味でおどろおどろしい妖相に化している。
 度を越えた恐ろしさのあまり、アヴィルドとヴェルバドはいよいよその場に凝固し言葉を失うばかりか呼吸すら苦しくなる。ヴェルバドは羽ばたきを一瞬忘れ、二人は半身ほど下へ沈んだ。
 精霊とは一体どれだけの数が居てどういった体系や文化を持っているのか、竜族以上に不明な部分が多い。しかし黒鱗達の反応を見る限り、あの竜族ですら精霊と本格的に事を構えるのは絶望的な事態と推し量れる。竜族は人間に比べて好戦的で抑えの利かない節がある。そんな竜族が戦いを避け震え上がるのだから、精霊と本格的に事を構えるとなれば相当の規模で何らかの変動が起こる。場合によっては、人間社会にも影響を及ぼしかねないかもしれない。
「ちょっと待って!」
 その言葉を言い終えた直後だった。不意にソフィアは立ち上がると、数歩の助走を付けオーボルトの右手に向かって跳躍した。ソフィアの突然の行動に驚いたグリエルモは、振り向き様に跳んで来たソフィアの体を慌てて抱き留める。
「ふう、危ない危ない。ソフィー、人間がこんな所から落ちたら危ないよ? それとも、それほどまでに一緒に居たかった?」
「珍しいわね、そういう気遣いは」
「小生はまめな男だよ」
「ウウウ……猿ガグリエルモ様ニ……」
「うるさいよ、オーボルト。大事な話をしているのだから静かに……いや、静かにしてくれないかな? お願いします」
 軽くオーボルトに殺気を向けられるも、ソフィアはグリエルモ共々受け流し真っ直ぐ正面を見据える。その先に居るのは、やや落ち着きを取り戻すものの未だ妖相の残滓が強い水の精霊だ。
「あなたがソフィアですね。初めまして、私は水の精霊のロナと申します。ごめんなさい、少々興奮しているので見っとも無い顔をしているの」
「いいえ、お気になさらず。それよりも、あなたは精霊側の代表者と思っていいのかしら?」
「ええ、そうですよ。ですが、これは精霊と竜族の問題ですよ? 人間のあなたは関わらなくて良いのですよ」
「私は人間の代表じゃないけどさ、何だかおかしな雰囲気になってきたから口を挟みたいだけ。それに、グリは身内でもある訳だからね。致命的な間違いをする前に口出ししておくの」
「致命的な間違い? あら、人間のあなたにはどこが間違っているように見えるのかしら」
「とりあえずだけど、竜族の事は穏便にしてくれないかな。有体に言えば、注意ぐらいにしておいて直接何かはしないで」