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 今日もまた、朝から日差しが強い。
 涼しいそよ風に当たりながら、ソフィアはのんびりと朝の海岸沿いを歩いていた。貨物の運搬用に舗装された道だが、さすがにリゾート地という事もあり、柵は初めて目にする奇抜なデザインで作られ、石畳には異なる色の石を組み合わせた模様が何分か置きに描かれている。自然をふんだんに盛り込んだ施設もさる事ながら、屋外の何気ない公共物ですら何かしら趣向が凝らされており、ただ歩くだけでも飽きることはない。
 これだけ手の込んだリゾート地ならば、観光客は掃いて捨てるほど集まってくるだろう。しかし、そこは喧噪や混雑とはまるで無縁だった。それは、このリゾート地が島を丸ごと一つ政府が買い上げて作られた保養地だからである。一般には開放されるどころか存在すら知らされてはおらず、入ることが出来るのも政府の関係者だけである。
 ここへ来て既に一週間が経過している。先日のザリスト大佐の暴走による余波を避けるべく、一時的な避難所としてここへ連れてこられた。島の外へ出なければ行動は自由、衣食住も政府が保証してくれているため生活に困る事はない。当初は二、三日ほどの滞在だったのだが、軍部の事件は予想外にあちこちへ波及しているため未だ沈静化の目処が立たず、従ってソフィア達は当分の間ここへ滞在せざるを得なくなっている。体のいい軟禁と言えなくも無いが、ただで満喫出来る休暇と思えばそれほど不満は無い。何より、従業員達が皆ある程度こちらの事情を把握し配慮してくれる事が気楽でいい。いちいち竜族どうこうを説明し人間である振りをさせるのは非常に気疲れするのだ。
 小一時間ほどの散歩を終えホテルへ戻って来る。朝食を食べるにはホテル内のサービスもあったが、付近にも同様のサービスを行う店が幾つかある。せっかくなら数を多く楽しみたいと考えるソフィアは、また昨日とは違う店に目星を付けた後、グリエルモ達がいる自室の隣の部屋のドアをノックした。
「グリー、オーボルトー、もう朝よ。御飯に行くわよ」
 すると部屋の中からどたばたと騒がしい足音が聞こえて来た。同時にオーボルトらしい声も聞こえてきたがヒステリックでやたら甲高く、普段のおっとりとした所作からは想像もつかないものだ。
 部屋の中からドアが乱暴に開かれ、咄嗟にソフィアは一歩後退る。ドアの間から現れたのは汗だくで目が充血した全裸のグリエルモだった。
「ソフィー、助けてよう。オーボルトがまた変なんだよー」
 息を切らせたグリエルモは涙目でそう訴える。鉈で切りつけようが大砲が直撃しようがびくともしないグリエルモが、何かに追い詰められているのか半べそをかきながら余裕の無い切羽詰った様相を見せている。グリエルモが泣く姿をソフィアは、自分でもやり過ぎたと思うほど酷く叱った時ぐらいしか見たことが無かった。
「お願いだよう、ソフィーからも何とか言っ―――」
 直後、いきなりドアの奥から手前に別の腕が伸びてくる。その手はグリエルモの口を塞ぐように回り込み押さえ付けると、そのまま強引に部屋の中へグリエルモを引き戻して行った。
「じゃ、邪魔をしないで下さい……! これは非常に神聖な儀式で、私にとっても一生の問題なのですから!」
 入れ替わりに現れたのは、同じく汗だくで全裸のオーボルト。髪を振り乱し息を切らせ、明らかに普段とは違った様子だ。相当興奮しているのか、目だけは竜族本来の細長の瞳孔に戻っている。
「はいはい、しないから。せめて鍵かけてやってね。人に見られたくないでしょ?」
「いっ……言われなくても……! ちょっと忘れていただけです!」
 初めから真っ赤だった顔を更に紅潮させ、オーボルトは乱暴にドアを閉める。グリエルモの助けを呼ぶ悲鳴が聞こえた気がしたが、それはあえて聞こえなかった事にする。気を取り直し、ソフィアは自分一人で朝食を食べに向かった。
 オーボルトの異変は島に着いた直後から起こった。竜族の雌には発情期があり、元々オーボルトは来年それを迎える予定で、そのためにグリエルモを探しているらしかった。しかし元々正確に数を数える習慣の無い竜族らしく、結果的に時期の計算は一年ほどずれていたため、来年だったはずの発情期を今になって迎えてしまったのである。グリエルモを見つけ出したのは幸運だが、十分な知識も無く捕まって事に至ってしまったグリエルモには若干同情する。
 発情期に入った竜族も、他の動物とさほど行動は変わらない。定期的に強い発情状態になって交尾を繰り返すが、実際に子供が出来るのは非常に稀らしい。ただし、雄には発情期が存在しないため、事に至っても決定的に温度差があるようだ。グリエルモは昨夜からずっと捕まっていたのだろうが、そうなるとさすがに泣き出しても仕方ないかもしれない。とは言え、オーボルトにとっては一生の問題らしいので放っておくしかないだろう。
 ソフィアはホテルを出てすぐのオープンカフェへ立ち寄った。ここの売りである胡桃やナッツを用いた自家製パンが人気らしいという理由で目を付けていた場所だ。普段なら値段を気にしながらメニューを選ぶところだが、特別待遇という事で食事の代金は政府が負担してくれるため自由に好きなものだけが食べられる。歓迎されているのか、それとも腫れ物に触るよう扱っているだけなのか、どちらにしても具体的な声明も無く厚遇されるのは不気味である。
 食事を終え、のんびりとお茶を飲みながら焦点を外して空を見る。セーフハウスに篭り軍部の特殊部隊から追われ戦艦に間近に横付けされ、これまでも決して平穏無事な日常を送ってきた訳ではないが、政府筋とここまで濃密に関わったのは初めてだった。それだけに、富裕層が休暇で訪れるようなリゾート地で金の心配をせず怠惰に暮らす現状には、あまりの落差に思考が止まりそうな気分である。実際、自分がここで何をして、その間周囲はどう動くのかなど、普段なら当たり前のように考えていたそれらも急に気にならなくなってきている。まさかこうやって骨抜きにしようとしているのかとも考えたが、それならもっと穏便で確実な手段があるだろうし、そもそも骨抜きにする理由が見当たらない。
 退屈過ぎて思考が腐っている。運動不足で体が鈍っているのと同じだ。
 こういう時は体を動かすに限ると、ソフィアは立ち上がり再び散歩に出かける事にした。ホテルの観光マップにはまだ回っていないところがある。それから、夜にはオーボルトも落ち着くだろうから久々にどこか人の居ない場所で思う存分歌わせてやろう。恐らく今の生活に一番欠けているのはそれだ。グリエルモの歌がいつ人に危害を及ぼすか、というスリルを伴う緊張感である。
 久しぶりに積極性を出したソフィアは大きく背伸びをし店を出ようとする。だが、丁度その時だった。通りの反対側からこちらの店に向かって来る人影が一つ、たまたま視界にそれを捉えたソフィアは何の気なしにその人物の顔を見る。その途端にソフィアは思わず息を飲み背伸びした姿勢のまま硬直してしまった。
「御無沙汰しています。調子はどうですか?」
 それは、数日前に別れたきりのトアラだった。