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 木枯らしが身に冷たく感じ始める秋の夜。未だ宵の口とは言え町を少し離れれば、足元も覚束なくなるほど暗い闇に包まれている。何も無ければ人通りも無い無人の草原。しかしその草原には、舗装された石畳の道が中心から南北に切り裂くように伸びて居た。南端は町の北口、そして北端は草原の向こう側まで続いている。宵闇の中でもこの道路のおかげで、明かりが無くとも道沿いに歩く分には何ら不自由はなかった。
 その晩、この南北に伸びる道路を二人の男が北上していた。共に堅苦しい制服に身を包み、腰にはサーベルを携えている。その姿から憲兵の職に就いている事が窺えた。一人は壮年の職歴の長い熟練の憲兵、そしてもう一人は紅顔の歳若い新人の憲兵だった。
「ところで、憲兵長殿。これから行う特殊任務とは何でしょうか? 昼間、政府の諜報部の人間が来ていたようですが、それと何か関係が?」
「そうだ。配属したてのお前は知らないだろうが、実はこの地域には政府が監視する重要な人物が住んでいてな。定期的にこうして様子を見なければならんのだ」
「なるほど。諜報部も関わっているという事は、よほど危険な人物なのですね」
「そう身構える事はないさ。それに、特殊任務と言っても大した事じゃない」
「大した事じゃない、ですか?」
 何故、さほど重要ではない仕事に特殊任務と銘打っているのだろうか。若い憲兵は言葉の矛盾に首を傾げる。
「ところで、お前は酒は飲めるか?」
「はい、嗜む程度には」
「それと音楽は好きか?」
「はい、好きです」
「女は? 特に美人の。ただし、一人は気が少々強いんだが」
「憲兵長殿は自分をからかっているのですか?」
「違うさ。まあ、それらが好きなら大丈夫だって事だ」
 憲兵長の返答に今ひとつ釈然とせず、若い憲兵は尚も首を傾げ訝しみながらひたすら歩き続ける。
 それからしばらく黙々と二人は歩き続けると、やがて一軒の白い建物に辿り着いた。その建物は道路の行く先にあり、町から続くこの道路がこの建物の為にわざわざ舗装されたものなのだと若い憲兵は思う。つまりこの白い建物は憲兵を初めとする政府関係者が行き来するためのもので、あの建物は隔離施設なのだろう。ここまで費用を投じて監視するのだから、よほど危険な人物に違いない。俄かに緊張する若い憲兵は自然と左手が腰に差したサーベルへ触れる。
「自分が先に行って様子を見て来ます」
「は? いいって、そんなのは。そういう大それた所じゃないぞ、ここは」
「しかし、危険人物を隔離しているのではないのですか?」
「まあ、ある意味そうなんだが……」
 普段は毅然とした態度で物事をはっきり断ずる憲兵長が不自然なほど口ごもっている。一体何に遠慮しているのか、何を困窮しているのか、若い憲兵には不自然にしか映らない憲兵長の態度が疑問でならなかった。あの建物にはどんな人物がいて、これから自分達は実質何をするのか、それをはっきりして貰わなくては困る。
 と、そんな時だった。突然建物の扉が内側から開き、中から一人の男が姿を現す。
「あーい、んじゃ、またねー」
 男は扉にもたれかかり、中に向かって手を振る。随分と酔っているのか呂律が良く回らず、足元もふらつきを見せている。
「ちょっと足元大丈夫? ちゃんと歩いて帰れるの?」
「大丈夫だって。目を瞑ったって帰れらあ。それよりもさ、今度俺とデートしない?」
「私、騒がしい人は好みじゃないんだけど」
「ちぇっ、相変わらずはっきり言うんだから。でも、そういう所が好き!」
「はいはい、私も好きだから。じゃあ、またね。気をつけて」
 男は扉の近くに居る、もう一人別の女性と冗談を交わしふらふらと建物を後にする。相当酒を飲んでいるようだがさほど足元に覚束なさがある訳でもなく、頃合を見計らって出てきた様子である。
「おう、旦那! お仕事は終わりかい!?」
 やがてこちらまでふらふら歩いてきた男は、必要以上に大きな声で憲兵長に話しかける。
「いや、これから残業さ。いつものな」
「そんな事言って、また経費で落とすんだろ?」
「そういう事を言うと逮捕するぞ。こっちはまだ仕事中なんだからな」
「うえ、おっかねえ。さっさと退散するに限る」
「そういう事だ。寄り道しないで帰るんだぞ。外で寝て凍死しても知らんからな」
 男はへらへら笑いながら町の方へ向かってふらふらと歩いていく。
 この状況に若い憲兵は驚きと困惑を隠せなかった。危険人物が隔離されているはずの建物の中から、何故酔っ払った人間が出て来るのか。その理由がまるで想像もつかなかったからである。
「た、憲兵長殿? 今のが危険人物ではないのでしょうか?」
「まさか。あいつは二丁目に住む鍛冶屋だ。包丁や農機具を作るのが仕事だが、腕がいいからたまに公需も請け負っているぞ」
「い、いや、そうではなくてですね」
「ほら、危険人物はそこで御出迎えしているぞ。ちゃんと挨拶しろ」
「えっ、出迎え?」
 慌てて憲兵長が指し示す先へ向き直る若い憲兵。するとそこには、扉にもたれかかり腕組みをしてこちらを見つめる一人の女性の姿があった。歳は自分と同じ頃、流行の髪型にまとめたブロンドの髪が実に特徴的だった。スタイルはスレンダーで目元がややきつい印象があったものの、自分の好みとはさほどかけ離れていないと若い憲兵は心の奥底で思う。
「随分な言い草ね。誰が危険人物よ」
「すまんすまん、今日はボトルを入れるから勘弁してくれ」
「そう言って経費で落とすんでしょ。まったく、税金の無駄遣いなんだから」
「そりゃ誤解だ。還元していると言ってくれ」
「ものは言い様ね。ほら、特等席が空いてるから。そろそろ出番よ」
 倍近く歳は離れているはずの憲兵長が、この女性に対してやや腰を低く応じている事に若い憲兵は更に驚く。治安を維持するのが仕事であるはずの憲兵は、如何なる相手に対しても毅然とした態度を取るべし。それが憲兵長の持論だったはずだが、この女性に対してはまるで普段の威厳が無い。これは相当危険な人物なのだろう。若い憲兵は一度は緩んだ気持ちを引き締めなおす。
 二人は女性に案内されるまま建物の中へと入る。中には大勢の人間がテーブルを並べ酒や料理に酔いしれていた。一番奥には一段高く備え付けられたステージがあり、一人の黒髪の女性がそこで軽快な曲を奏でていた。人々はその曲に夢中になっているらしく、誰もが心地良さそうに聞き入っている。
「あの、ここは一体?」
「酒場よ。それとも、こんな庶民の出入りする店は初めてかしら?」
「そ、そういう事を言っているのではないであります。この様子は何かと自分は」
 憲兵に対して何て横柄な態度を取るのか。そう食って掛かろうとしたその時、憲兵長が間に入りそれを制した。
「おっと。悪いね、こいつはまだ新入りでな。ここの事を良く分からんのだ」
「確かに見ない顔ね。ここは皆で楽しく過ごす場所だから、下手に騒ぐと物理的に潰すわよ」
「つ、潰す? お前がか?」
「お前じゃなくて、ソフィアよ。私はここの主人。それから、ここには気難しい竜がいるから気をつけてね」
「え? 竜って?」
 更に理解出来ない言葉を続けられ困惑する若い憲兵。しかしソフィアと名乗った女主人は席だけを無言で指差し、そのままカウンターの方へ戻っていった。カウンターには白い髭を蓄えた老人が一人グラスを磨いていた。こちらの視線に気づくとそっと目を細め一礼する。
「お前な、ああいう態度は取るものじゃないぞ」
「しかしですね、憲兵の我々に対しあの態度は。それに、ここは一体何ですか? 重要な任務じゃなかったんですか?」
「まあ、順を追って話そう。じいさん、いつもの奴を二つだ」
 憲兵長にはぐらかされながら席へと座らされる若い憲兵。本来なら絶対に失敗してはならない緊張感に包まれながら仕事をしているはずが、何故か酒場にいるばかりか民間人に不遜な態度まで取られているこの状況にどう振舞えばいいのか分からず、若い憲兵は今にもどこか当り散らしたい気分だった。だが、ふと若い憲兵は先ほどから耳に残り続ける旋律に思い出したように顔を上げステージの方を見やる。ステージには黒髪の若い女性が軽快な指捌きでこの景気良い音楽を演奏していた。歳は先程の女主人よりはやや上に見える。肌は色白で顔立ちは完璧としか言い様が無いほど整っており、そっと伏せられた目元からはおっとりとした印象を受ける。スタイルも均整は良くもグラマーで、女主人とは何から何まで対照的だ。
「憲兵長、あの女性は?」
「ああ、彼女はオーボルトと言ってな。かつては政府にマークされていた」
「あの人がですか? そんな風には見えませんが」
「普段は人間の姿だからな」
「人間の姿?」
「なんせ竜だからな。結構有名だったらしいぞ?」
 一体憲兵長は何を言っているのだろうか。そう訝しむ若い憲兵だったが、不思議とオーボルトの音楽を聴いていると気持ちが安らいでいき些細な疑念などどうでも良くなってきた。本人はほとんど動く事も無く作業的ともすら言えるほどの様子で演奏しているのだが、奏でる曲調は軽快である種の高揚感すらもたらせる。確かにこういう音楽があれば、わざわざここまで酒を飲むために足を運ぶのも悪くは無い。先程の老人がうやうやしく運んできたグラスウィスキーを傾けながら、若い憲兵はしばしの間じっとオーボルトの演奏に聞き入った。良い音楽と美人で目の保養が出来れば決して無駄足にはならない。
「ところで、特殊任務って一体何なんですか? あの女主人の態度はともかく、別段普通の酒場じゃないですか」
「普通じゃないぞ。今演奏している彼女は実は竜だし、カウンターの老人は元死刑囚、そしてあの女主人は貴族と諜報部にコネが居る上、軍部と一戦交えた事がある」
「憲兵長殿は、やはり自分をからかっていますね? それとも、もう酔ってしまわれた?」
「そんな事は無い。それにまだ極めつけがいる。ここにはな、竜の中でも一番強い銀竜グリエルモがいるんだぞ」
「やはり憲兵長殿は酔われている」
 もはやまともに取り合うだけ無駄のようだ。そう若い憲兵は溜息をつくと、仕事中という意識は捨て去りただ飲みに来ているだけの振る舞いを始める。さすがに憲兵長もそういった態度を見せれば何か苦言を述べてくるかと期待はしていたが、前とさほど変わった様子は無く自分と同じようにただ酒を飲みながらじっと演奏に聞き入っていた。
 しばらくしてオーボルトの演奏が終わると、彼女はそっと気恥ずかしそうにはにかみながら一礼しそそくさと奥へ引っ込んでしまった。客はそれに対して歓声を送るが、酔っている割には下卑たものや悪ふざけの言葉は無く極当たり前の賛辞だったオーボルトの音楽に対する素直な評価の表れなのだろうと、若い憲兵は自分もそれなりに礼儀は尽くすべく拍手を送った。一瞬、奥の物陰からオーボルトがそっとこちらの様子を窺う仕草が見られた。どうやら見た目の印象通り、酷く奥手で恥ずかしがり屋なのだろうと微笑ましく思う。
「はいよ、憲兵長さん。新しいボトル」
 歓声が落ち着き始めた頃、あの女主人がまたふてぶてしい態度でテーブルの上にボトルをどんと置いた。自分とさほど歳も変わらないくせに何て大きな態度を人に取れるのだろう。そう若い憲兵は、オーボルトの演奏による高揚感に水を差されるような思いで女主人を一瞥する。確かに美人ではあるがそれだけで全て許されると思ったら大間違いだ。酒の勢いに任せてそんな事を吐き捨てたい衝動に駆られる。
「グリエルモはどうだ? 最近の調子は」
「相変わらずね。私以外の言う事なんかまるで聞きやしないし。たまに、オーボルトに何か言われると妙に従順な時もあるけどさ」
「人間であれを飼い慣らせるのはお前さんぐらいだろう。相手を見誤らなきゃなあ、前の憲兵長ももう少し長生き出来たんだろうが」
「私が死なせてしまったような言い方はやめてくれるかな」
「すまんすまん。ところで、今度一緒に食事でもどうだ? いい店を見つけたんだが」
「あんた妻帯者じゃない。それに、お金の続かない人は好みじゃないの」
「やれやれ、相変わらず手厳しい」
 二人のやり取りを、若い憲兵は冷ややかに聞いていた。憲兵長は何て物好きなのか。そんな不信感さえ抱いていた。
 オーボルトはもう一度演奏はしないのだろうか。そうでなければ、わざわざ憲兵長とさほど面白くない酒を飲んでも仕方が無いのではないか。そんな思いにすら駆られ始めた若い憲兵は、グラスに残った最後の一口を飲み干した。
 するとその時だった。不意に周囲の空気が変わり、先ほど以上に一気に加熱した客達が歓声を上げ始める。突然の事に驚いた若い憲兵は思わず噎せ返ってしまった。
「グリエルモ様ーッ! こっち向いて!」
「今夜もその無表情がステキ!」
 歓声の比率はやけに女性が多いように思う。ステージに上がる人物は一体どんな人間なのかと若い憲兵は眉を顰めながら目を向ける。
「こらこら、静かにしたまえ。君達猿は相変わらず落ち着きが無い」
「もっと罵って! 私、グリエルモ様になら幾らでも罵倒されたい!」
「小生、悪い言葉は使わないよ。罵るのは品性が劣る者が行う行為だからね。猿でも勉強は出来るのだから、それぐらい理解したまえ」
「する、するー! だから教えて!」
「小生、猿の学問は知らぬよ」
 ステージに上がったのは、これも同じく自分とさほど歳の変わらない青年だった。体格は撫で肩の長身で痩せ型、全体的に線が細く本ばかり読んでいそうな印象が先行する。髪は驚くほど綺麗な銀髪、顔立ちも人形のように整った非の打ち所の無い美形だった。だがそんな美しい容姿とは対照的に、青年はいきなり客に対して悪口を並べている。平然とした表情で当たり前のように口に出来る神経もそうだが、それを受ける客達も怒るどころか喜びに震えている様が、まるで別世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほど異様で理解に苦しんだ。
 良く周囲を見渡せば、ステージ近くに詰め掛けているのは女性ばかりで男性はむしろ店の隅へ離れるか会計を済ませ帰路についてしまっている。まるでこの空間に居るのが嫌で嫌でたまらないので逃げ出しているかのようだった。
「ほら、彼がさっき言った銀竜グリエルモだよ。やあ、相変わらず今夜も飛ばしてるね」
「最近は変なファンが増えて困ってるわ。幾ら顔が良くてもあの言動じゃ大抵の人は引くんだけどね。耐性ついちゃってるのかしら」
「何なら、あれを利用してサイドビジネスってのもいいんじゃないか?」
「業者と相談して何かグッズを作ろうとしている所よ。さて、私とお父さんはしばらく離れるから。ゆっくりしてって」
 そう言い残し女主人はカウンターの老人と奥へ消えていった。
 ファン層はともかく、この銀竜グリエルモは少なくともこれだけの数の人間の心を掴む何かを持っているのだろう。さすがに顔だけではあの罵倒を受け入れはしない。それもわざわざこんな所まで足を運ぶのだから、それは並大抵のものではないに違いない。
「そろそろ静かにしたまえ。雑音を振り撒く猿はくびってしまうよ」
 グリエルモは得意げな表情で咳払いをすると、手にした楽器を構えやにわに弾き始めた。
「彼も音楽をやるんですか? あれはマンドリンですよね」
「勿論だとも。何せ彼は、さっきのオーボルトの師匠だからな」
「なるほど。だからあんなに熱狂的なファンがいる訳ですか。先程の彼女、凄く良い曲でしたからね。その師匠ならきっと、もっと凄いんでしょう」
「ん? ああ、そうだ、すっかり言い忘れてた。グリエルモの音楽は、曲はそれは素晴らしいものだが肝心の歌が最悪でな」
「最悪?」
「物は慣れだよ、慣れ。ここの憲兵を務める以上は当然の技能として慣れておかんとな。安心しろ、来月から危険手当がつく」
「慣れなきゃいけないって、一体何に―――」
 若い憲兵がそう憲兵長へ問いかけるか否か。返答よりも先に確実な答えが、まさに矢尻に貫かれるかのような衝撃が耳から耳へ脳を経由し突き抜けていく。
「『あー、一人ぼっちの僕を救ってくれたのはー、二つの小さな太陽さー。一つは苛烈に僕を焼き焦がしー、一つは笑顔で僕を搾り尽くすー』」



The silver dragon sings forever