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 くっそ、何やってんだ運転手め。
 ぶつけた顔の痛みを堪えながら、僕はすっかり覚めてしまった目で常夜灯を頼りに周囲を見渡した。僕以外の乗客は全部で三人ほどで、いずれも僕と同じように突然の事に驚ききょろきょろと見回している。
 とにかく、状況を把握しないと。
 僕はすぐさま席を立って運転手の元へと駆けた。
 運転席は酷い惨状だった。バスは反対車線の歩道の電信柱へ真っ正面から激突していて、フロントガラスには広く網の目状に亀裂が走っている。運転手はハンドルに突っ伏したままぴくりとも動かない。
 どうしてこんなになってもブレーキすら踏まなかったのだろう? 反対車線に乗り入れたりしたら、すぐに気づきそうなものを。
 まずそんな疑問が浮かんだが、それはすぐに解決した。良く見ると、運転席に散乱しているのはガラスの破片だけではなかった。ビールやワンカップといった酒の缶が幾つも転がっている。
 何やってんだよ……。
 運転手は、途中から酒を飲みながら運転をしていたようである。普通、そんな事は絶対に有り得ない事だけれど、警察もまともに機能していない時勢だからこれぐらいは許されると思ったのだろうか。もしくは単に自暴自棄になってやってしまっただけなのか。
 とにかく手当をしてやらないと。
 運転手が動かない所を見ると、どうやら電柱にぶつかった衝撃で意識を失っているようである。頭を強く打っているのかもしれない。けれど、僕はそういう時の手当の仕方なんて知らない。車内の他に誰か知っている人はいないだろうか。
「ちょっとどいて貰えるか」
 そう僕の背を小突いたのは、大学生らしい青年だった。
「え? あ……」
 僕よりも二回り近く背の高い彼に見下ろされるのはとても威圧感の感じる事だった。青年は強引に前へと進んでくるので僕は成す術なくバスの外まで追いやられてしまう。それに続いて後の二人もバスから降りて来た。どちらも二十代から三十代くらいの男性で、言葉を交わしたりしない所を見ると、三人とも顔見知りとかの間柄ではないようである。
「あの、どなたか応急手当のやり方を知っていませんか? 運転手さんを助けないと」
 そう僕は三人に向かって呼びかけた。だが驚く事に、三人はまるで聞こえていないかのように、その場で周囲を軽く確認するとすぐさまどこかへ向かって歩き始めてしまった。
「ちょっと待って下さい! 運転手さんを助けないと!」
 予想外の反応に驚いた僕は思わず声を荒げて再度三人へと呼びかける。すると、最初に降りた大学生らしい青年が煩わしそうにこちらを振り向いて答えた。
「放っておけよ、そんなの。自業自得だ。それに、助けたってどうにかなるもんじゃない」
 自業自得って……。
 そうしている内に、三人はあっと言う間に遠ざかってしまった。怪我人など、どうなってしまおうと全く興味は無いと言わんばかりの態度である。さすがに僕は怒るというよりも呆れてしまった。幾らこんな時勢だからと言っても、人として越えてはいけない一線はあるはず。善意ってそういうものじゃないんだろうか。
 せめて僕だけでも何とかしないと……。
 自分に何が出来るか分からなかったが、とにかく僕はバスの中へ戻ると、座席の上に有る荷物置きから救急箱を降ろし、運転手の元へ向かった。
「大丈夫ですか!? 返事をして下さい!」
 まずは意識が戻るかどうかを確かめようと、耳元で叫びながら肩を揺さぶってみた。すると、意識を失っていると思っていた運転手は、いきなり左手を持ち上げて僕を振り払った。
「うるせーよ、放っといてくれ」
 そう苛立った口調で吐き捨てると、運転手は再びハンドルに突っ伏したまま動かなくなった。
 まさか、酔って眠いから起こすなって事なんだろうか。
 運転手は自分からそうしているという事は、多分怪我も無く無事なんだろう。ただ、酒を飲み過ぎているだけだ。しかし、仮にも勤務中にそんな状態になるまで酒を飲むなんてどういうつもりなのだろう。本当に何もかもに嫌気が差しているなら仕事自体を放棄するのが自然だと思うのだけれど。
 とりあえず、これ以上この運転手にかかずりあっても仕方が無い。こんな調子では幾ら待ってもバスは動かないだろう。
 気を取り直し、僕は自分の席から備え付けの毛布を一枚拝借しバスを降りた。先程まで霧雨が降っていた外は、いつの間にか濃い霧が出ていた。数メートル前も見えないほどの深さで、うっかりすると方向感覚すらも麻痺してしまうんじゃないかという不安さえ覚える。
 僕は合羽代わりに毛布を頭からすっぽり被ると、ひとまず道なりに歩き始めた。
 さっきPDAで調べた時は既に岩槻まで来ていたのだから、大宮までは何とか歩いても辿りつけるかもしれない。それに、もしも途中で車が通ればヒッチハイクが出来る可能性だって出て来る。
 まるで見たことも無い土地、道路を、たった一人で深い霧の中歩くのは不安で不安で仕方なかった。何とかなる、と言い聞かせる自分の言葉さえも嘘臭く聞こえてしまう。けれど、僕は一人じゃ何も出来ない子供ではないから、今はただ虚勢でも前向きに出来る事を頑張らなければ。
 どいつもこいつも、何なんだよ……。自分のことばっかりでさ。まだ、地球が滅亡するって決まった訳じゃないのに。
 そんな愚痴をこぼす僕は、バスの運転手やさっきの三人に対して僅かながらの優越感を感じていたと思う。僕はお前達とは違って、こんな状況でも他人を気遣う事が出来るんだと。けど、結局元を辿ればあまり差はないのかもしれない。僕の一番の目的は家族と再会する事であって、他の事にはあまり時間を割きたくないと思っているからだ。