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 もう、どれだけ歩いただろうか。
 もはやただの時計となってしまった携帯を見ると、時刻は午前六時を差しかかっていた。あれから随分歩いたというのに、ちっとも町らしい所に出て来る気配が無い。霧も晴れるどころかむしろ濃くなってさえいるように思う。周囲の景色が変わらないから全く進んでいないように錯覚しているのかもしれないが、それでも進展や変化が無いという事には非常に焦りを感じさせられる。
 まさかとは思うが、あのGPSサービス、まともに機能していたんだろうか?
 ふと不安に思った僕は、カバンからPDAを取り出しもう一度GPSを使って位置情報サービスを試してみる。
「現在地……くそっ! なんで僕が今、北京なんかにいるんだ!?」
 先程とは打って変わってあまりに荒唐無稽な結果に、僕は思わずPDAをその場へ叩きつけたくなった。どうやらこのサービスはまともに機能していないようである。監視員がいないのか、メンテナンスが行われていないのか、はたまたどこかの馬鹿がシステムに侵入しているのかもしれない。さっき岩槻なんてそれらしい結果が出て来たのはたまたまなのかどうかは分からないが、少なくとも現在自分がどこにいるか分からなくなってしまったのは確かだ。
 くそっ、本当に今どこにいるんだろう……?
 迷子、という屈辱的な単語が脳裏を過ぎる。しかし、今の自分が置かれている状況は他に表現のしようが無かった。見知らぬ土地で所在も分からず、目的地へ辿りつくにはどこへ向かえばいいのか分からない。それが今の僕の状況だ。
 冷静に状況を把握していくに連れ、急に不安感が強さを増して来た。普段何気なく出歩く外の世界がこれほど異質に見えたのは生まれて初めてである。もしも迷子になったなら、携帯を使ってアバウトに助けを呼ぼうと思っていたのだけれど、今は日本中ほとんどが通話が普通である。メールも同じだ。そんな状況を鑑みて、普段の自分が自信は他者との繋がりで維持されているような儚いものだと存分に思い知らされた。僕に限った事ではないけれど、みんな普段から困った時は誰かに助けを求めればいいと他人頼りにしているから、こういう状況になった時に一人じゃ何も出来なくて追い詰められるんだと思う。危機意識の低下っていうのはきっと情報機器が便利になり過ぎて、自分は一人じゃ無いからいつでも助けて貰えると勘違いしているせいなんだろう。
 自分がどこへ向かっているのかも分からないというのに、僕はひたすら前へ前へと進んで行った。立ち止まっても不安なら進んだ方がマシだと思ったからだ。けれど、実際はただの現実逃避にもならない事だ。実家に近づいているならばいいが、もしも反対方向へ向かっていたりしたら全くの無意味だ。
 深い霧の中をかきわけて進むなんて文学的だな、と不意にそんな事を思ったけれど、そういう趣味の悪い冗談を並べている状況でもないと溜め息をつく。けれど実際、軽口の一つでも叩いていないと気が滅入りそうだった。文字通り見通しの立たない状況で苦し紛れに盲進する自分を否定したくて仕方がないけれど、如何せんそこまで冷静さは失ってはいない。いや、むしろそれぐらい冷静である事こそを喜ぶべきなのだろうか。
 それから、どれだけの間歩いただろうか。
 携帯で時刻を確認するのも怖くなってきた頃、ふと僕はどこからか聞き慣れた音を耳にした。
 ハッと足を止め、目を閉じて周囲に耳を澄ます。すると程なくして、さっき聞いたのと全く同じ音が再びどこからか聞こえて来た。
 これは……車の音?
 付近に自分以外に誰かがいる。それも車に乗って。僕は安堵と喜びとを同時に味わった。まだはっきりとした事は何も分かっていないけれど、少なくとも泥沼のような現状をどうにかする兆しが現れたからである。
 どこだ、今どこら辺を走ってる? 道路は一本道だから、絶対にこっちへ向かってくるはず。
 居ても立っても居られず、僕は道路の真ん中へ飛び出すと車の音が向かってくる方へ期待の視線をぶつけた。深い霧の中ではエンジン音は聞こえるけれど車体はまるで見えてこない。けれど、うっすらとヘッドライトらしき光が左右しているのだけは分かった。
 初めは微かにしか聞こえなかったエンジン音も、次第にはっきりと大きくなってきた。そろそろ車は近くなってきたと当たりを付けた僕は、更に両手を大きく振って跳びはねながら車へアピールする事を始めた。向こうはこんな所を人が歩いているなんて思わないだろうから、そうやって自分の存在を知らしめないと素通りされるだろうからである。
 やがて、深い霧をかきわけて一台の乗用車が現れた。車種まではよく分からなかったけれど、よく町中でも見かけるシルバーの車体である。
 ヘッドライトが僕へと浴びせられる。眩しさのあまり、思わず手で顔をかばった。偶然なのか意図的にかは分からないが、少なくともこれで僕の姿が運転手に見えているはずである。
 間もなくブレーキ音と共に車が止まってくれる。そう僕は確信していた。
 だが、
 ……え?
 僕の耳に飛び込んで来たのはブレーキ音ではなく、加速を強めたエンジン音だった。
 それから先はあまりに矢継ぎ早で、通り過ぎた後に思い出すようにしか認識する事が出来なかった。予想していたのとは違う状況だと理解した途端、僕は慌てて体を横へそらす事を試みた。けれど見えない紐で縛られているかのように、体は思うように動いてはくれなかった。そのまま捻りかけた体のどこかに衝撃が走ったかと思ったら、後ろ髪を引っ張られるような浮遊感に見舞われた。体が驚くほど高く宙へ浮かび上がる様を、突如高くなった視界で実感した。
 どうして止まってくれないのだろうか。絶対に気づかなかったはずはないのに。
 そんな間の抜けたことよりも着地の事を考えるべく自分を緊張させようと思った途端、濡れたアスファルトに胸を強く打たれ、その衝撃でぐらりと頭の中が大きく揺れた。はっきりと火花が散ったのが見え、その事に驚きを覚える。
 車の音がこの場から遠ざかって行くのが分かった。いや、もしかすると遠ざかっているのは僕の意識なのかもしれない。どちらにしても、周囲がとても静かになって行くのが分かった。まぶたも開けられず、体も痺れてしまって動かす事が出来ない。アスファルトとくっついている部分が冷たくなっていく。やがて、思い出したように痛みが全身を駆けるものの、頭の中がぼんやりとしていくせいで痛みなのか冷たさなのか分からなくなってしまった。
 車にはねられるのって、こういう感覚なのか……。
 そうしている内に、僕の意識はすとんと真っ暗な中へと落ちて行ってしまった。