BACK

 どこからか聞こえてくるその音で、僕は意識を取り戻した。
 とんとんと小刻みに鳴らされるリズミカルなその音は、無視に徹して寝続けようとする事も許さず、しかし頭の中を掻き毟るような不快感も無く、ただ悠然と存在感だけを示し続ける。
 ここは一体どこだろう? 布団に寝ているようだけれど。それにこの音って……包丁?
 目を開く前からそんな事を考えながら、僕は瞼をゆっくりと開けた。するとそこには古ぼけた木張りの天井があった。電気のついていない蛍光灯と正方形のカバーもぶら下がっている。
 家の中にいる事は間違いない。でも、どうしてこんな所にいるんだろう?
 嗅ぎ慣れない他人の家の匂いに不安を覚えた僕は、慌てて布団を撥ね除け跳び起きた。
「うわっ、痛ッ!?」
 突然襲いかかられた痛みに、僕は声を裏返させながら跳び起きた勢いで畳の上へ背中から転んだ。
 一旦冷静になって痛みの元を探る。最初に把握出来たのは、自分が気絶している間に着替えさせられたらしく見慣れないパジャマのを着ている事だった。右足が痺れるような痛み発している。パジャマの裾を捲って見ると、右足首を中心に包帯がぐるぐると巻かれ固定されていた。どうやら痛みの元はここのようだ。
「そういや、車にはねられたんだっけ……」
 ふと最後に見た、目の前まで迫り来るヘッドライトとエンジンが急激に回転数を上げた様を思い出し、ぶるっと身震いする。車にはねられる事自体が生まれて初めての経験なのだけれど、それが明らかに殺意を持っての事となるとショックはひとしおである。
 あの車の運転手は、霧のせいで僕に気が付かなかった訳じゃない。もしもそうだったら、はねた後にすぐブレーキを踏むだろうし、何より敢えて直前にアクセルを踏み込む必要はどこにも無いのだ。
 それは、普通ならば絶対に許されるものではない異常な出来事である。けれど、僕は淡々とこの事実を認識し受け止める事が出来た。理由は考えるまでも無い。バスの事故の事もそうだ。今、日本中が生きる事に投げやりになっているから、犯罪を犯そうが不祥事を起こそうが何も思わないし、誰もそれを咎めない。そんな風に人々の倫理観が崩壊したのだ。
 社会がうまく機能しているのは法律や罰則があるからではなくて、誰もが心の根底に持ってる良心や責任で機能しているのだと思っていた。けれど実際は、誰もが単純に法律に従っていただけだったのだ。法律が意味をなさなくなりつつある現状で、こうも立て続けにおかしな事が起こったのがその証明である。
「ん?」
 その時、障子戸を隔てた廊下側の方から、パタパタと忙しないリズムで近づいて来るスリッパの足音が聞こえてきた。それが誰かと思っている内に、足音は部屋の前までやってくるといきなり障子戸が開かれた。
「あら、目が覚めたのね。大丈夫?」
 そう言ってスリッパを脱ぎながら入って来たのは、若い女性だった。水仕事をしていたのか斑に濡れた薄緑のエプロンをつけ、長い髪を後ろで一本に結っている。歳は多分大学生くらいだろうか。色白で化粧が薄く、どことなく地味な感じの印象を受けた。
「ええ、なんか、その、お世話になったようで……」
「家に運んで来た時はぐったりしていたから心配したんだけど、元気そうで良かったわ。右足が腫れてたから手当はしてみたんだけど、他にどこかおかしくない?」
「多分大丈夫だと思います。でも、一応冷やした方がいいかも」
「そうね、後で何か用意してあげるわ。私、黒峰明菜。よろしくね」
「あっ、僕は遠藤雄太と言います」
 彼女は、そう、と答え微笑んだ。人の笑顔を見たのは随分と久しぶりのような気がして、僕は不意に奇妙な安心感を覚えてしまった。人が笑う事は社会生活において有り触れたものなのだけれど、こんな御時世で自分すらもここ数日は緊張しっ放しだったせいか、釣られて笑った自分が笑顔を思い出したような気分にさえさせられた。知らぬ間に僕自身も随分と病んでしまっているようである。
 どうやら僕は気を失っている間、この人に助け出され介抱されたようだ。それにしても、親切な人がすぐ近くにいて助かった。もしも助けてくれるような人が誰もいなかったら、あのまま雨の中で延々と眠り続けるか、もしも運が無ければ別な車がもう一度通りかかってとどめを刺されている所だ。
「ところで雄太君、お腹空いて無い? 今、丁度朝御飯を作ってるところなの」
 そう明菜さんに言われ、ふと僕は空腹感で胃がきりきりしている事に気が付いた。そう言えば、昨日から何も食べていない。途中コンビニにでも寄って何か買い込もうなんて思っていたけれど、それが無理だったからずっと我慢していたのだった。
「はい、是非いただきます」
「それじゃあ茶の間に行きましょうか。肩を貸してあげるから、ほら、掴まって」
「いや、いいですよ。一人で立てます」
「いいから、そんな事ぐらいで。さっきだって、一人で立とうとして変な声あげてたでしょう? 台所まで聞こえたよ?」
「まあ、それはそれで……」
「ほら、早く。まだ御飯の準備は終わってないんだから」
 明菜さんは半ば強引に僕の左腕を自分の肩へ回すと、そのまま掛け声と共に引っ張り上げた。僕は先程の右足の痛みを思い出し、自然と重心が明菜さんの方へと偏る。なんとなく、酔っ払った上司が女性社員に絡む構図を思い浮かべた。しかし身長は明菜さんの方が高く、肩が斜めに上向いた格好になっている。
「あの、普通は怪我してる方を支えるんじゃないんですか? これじゃ歩き辛いですよ」
「あら、本当。ごめんなさい。それじゃあちょっと、このまま」
 そう言って明菜さんは僕の体を支えながら自分の立ち位置を右側へと移す。当然だが、無理のある動作であるためお互いの体があちこち密着する。いきなりの事態に僕はどくんと胸が高鳴って全身がぎゅっと緊張したが、当の明菜さんには全く意に介する様子が無い。マイペースな人なのか、そういう大らかな人なのか、初体験のシチュエーションに僕はただただ戸惑い緊張するだけだ。こんな風に女性を意識したのは、もしかすると初めての事かもしれない。
 人間、慣れない事にはどうしようもないものだ。そう溜息をつくのははばかられ、とりあえず複雑な心境だというアピールの意味で眉間に皺を寄せてみた。