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「それでは、いただきます」
「いただきます」
 まるで長年それを続けて来たかのように、僕達はぴったりと調子を合わせ食事を始めた。
 明菜さんが用意した朝食は実にスタンダードな和食だった。玄米を僅かに混ぜた白米、油揚げと絹豆腐の味噌汁、白身の焼き魚、小松菜と白ゴマのおひたし、小茄子とキュウリの浅漬け。どれも自分の家で当たり前に食べるようなものだけれど、どこかホッとさせる安堵感があった。考えてみれば、人が作ったものを食べるのは久しぶりのような気がする。きっと人の精神状態は食べるものに左右されるのだろう。味気ない既製品ばかり食べていると自然と気持ちもそれに似てくるものだ。
「どう? お口に合うかしら?」
「ええ、とても美味しいです」
 特別変わった料理では無いにしろ、明菜さんの料理は確かにおいしかった。僕が人の作ったものに飢えていたという事もあるだろうが、そういう精神論を抜きにしてもこの料理はおいしいと思う。人は生涯食べるものは常に母親の料理と比較するそうだが、僕の母親も似たようなものを作るだけに尚更比較してしまいがちである。世の中にはわざと母親とどちらがうまいか訊ねる人もいるらしいが、明菜さんがそういうサディスティックな人でなくて良かった。
「あの、明菜さんはここに一人で住んでいるんですか?」
「ええ、そうよ。キミはどこから来たの?」
「成田空港からです。家族とマレーシアに行こうとしていたんですけど、爆発テロが起こってしまって。それで離れ離れになってしまったので、あらかじめ示し合わせていた通り一旦家に戻って合流しようとしていました」
「まあ、随分と大変な目に遭ったのね。お家はどこ? ここから近いの?」
「大宮です。でもその前に、ここはどこですか? 岩槻辺りだと思うんですけど」
「いいえ、ここは春日部よ。ちょっと大宮までは遠いかしら」
 という事は、最初にGPS機能で調べたデータはあながち間違いでも無かったという事になる。ただでさえ見慣れない土地だから、変な所に来てしまってはいないかと正直不安ではあったけれど、春日部辺りならば十分許容範囲内だ。移動手段は徒歩しかないけれど、現実的なレベルで十分どうにか出来そうだ。
 ふと世間の情勢を知りたくなり、テレビを探して茶の間をぐるりと見渡す。丁度僕の座る席の真後ろにテレビは見つかった。ブラウン管でフラットタイプではない比較的古い型だが画面は割と大型のものだった。ガラス戸のテレビ台の下には、今度は比較的新しいハードディスク内蔵型のビデオデッキがある。何となく、わざわざ選んで買ったというよりも何かのくじ引きかでたまたま当たったもののように思えた。
「こら、御飯の時はテレビをつけちゃいけません」
「いや、そういうつもりじゃないですよ。ただちょっと、ニュースみたいな情報が気になって。ここってテレビ放送は入ります?」
「昨日のお昼には映ってたと思うわ。きっとまだ大丈夫よ」
「そうですね」
 何だか終わりが気の無い会話になってしまった。
 これまで当たり前に観て来たテレビ放送も、最近では急激に番組数が減ってしまっている。理由は言うまでもなく、日本中が大混乱に陥っているためである。テレビ番組ががらりと様変わりしてしまえば誰もが不安感を覚えるはず。特に普段からテレビを良く見ている人間には、番組が臨時化してしまうだけでも十分現状の緊急性を感じられるだろう。それでも、まだ放送が続いているだけでもマシだ。もしも放送が完全に停止してしまったら、それはいよいよ日本も末期の状態に追い詰められたという証拠に他ならないのだから。
「テレビが駄目ならラジオ、インターネットしかないかなあ。明菜さんちはインフラどうなってます?」
「インフラ?」
「ほら、データ回線の事です。ネット環境ってありますか?」
「ごめんなさい、私はインターネットは見ないから、そういうのは引いてないわ」
「そうですか。いえ、ありがとうございます」
 一応、LANカードは持っていたからxDSLがあれば楽にネットが使えたのだけれど。アナログモデムはさすがに持っていないから、普通の電話回線では接続はちょっと無理だ。PHSカードを使えば繋ぐ事は出来るけれど、ただ携帯電話ですら通信網がほぼ死滅してしまっている状況だから、それ以上の事をPHSにも期待するというのはいささか無理があるように思う。それにサーバーだけでなくDNSも物理的にどういう状態にあるのか疑問だ。もしかするとインターネット網は既に存在すらしていない可能性もある。そこら辺も調べられたらいいのだけれど、考えてみれば僕の情報源もツールもほとんどインターネットだ。それではとても調べようが無い。
「キミは毎日ニュースとかチェックしないと気が済まないタイプなんだ? 忙しないわね。一日や二日ぐらいじゃ、そうそう世の中の状況は変わらないわよ。こんな状況になって政局もスポーツも関係ないじゃない」
「明菜さんこそ、少し鈍感過ぎじゃないですか? 現代社会は情報が、それも新しい情報が命なんですよ。こんな状況じゃ尚更です。与党もナイターも興味は無いけど、さすがに穴の拡大状況は気になりますよ」
「穴? ああ、もしかして奈落の事ね」
「奈落?」
「そう。ずっと前にテレビの人が言ってたの。まるで奈落の穴だって。それから良くあちこちで聞いたと思うわ」
 うまい事を言うな、とは思いつつ、既にその穴によって国単位で人が死んでいるのだから、とてもふざける気持ちにはなれなかった。けれど確かに奈落には違いないと思う。そもそもこの地球上に、底が見えないほど深い穴が存在する事自体があり得ないのだ。地面にどれだけ深い大穴が空いたとしても地球の反対側に突き抜けるだけだ。なのに飲み込まれたあらゆる存在は、そのまま忽然と消えてしまっている。地球に空いた穴に飲み込まれたというのに、飲み込まれた物の行方がはっきりとしないのである。ブラックホールのような現象が起こっているだけと単純に考えるのが正しいとは思うけれど、底無しの穴というのもある意味では文学的で正しい表現ではあるだろう。
「今、奈落はどのぐらいの大きさかって知ってますか?」
「昨日のお昼の時には、ハワイ諸島が飲み込まれたってニュースがあったような気がするわ。今もそれぐらいなんじゃないかな?」
「ハワイですか……」
 ハワイって、めちゃくちゃ近くまで来てるんじゃないか?
 昔から耳慣れている単語であるだけに、まだ実際には行った事はないのだけれど、日本の目と鼻の先まで迫り来ているという実感がまた一つ重くなった。日本が存在していられる時間も、そう長くは無いだろう。せいぜい一ヶ月かそこらか。その前に、少しでも早く家族と合流しマレーシアへの脱出を図らなければ。
「あの、大宮ってどっちの方角でしょうか? ちょっとこの辺りの地理はいまいち分からなくて」
「家の前の国道に沿っていけば、後は看板通りで良いはずだけど。まさか、もう出かけるつもりなの?」
「はい。急いで戻らないと、家で家族が心配してるかもしれないから。ずっと連絡だって取れてないですし、急がないと……」
「うん、キミの気持ちは分かるけど。でもキミは車にはねられたんだよ? 足だって怪我してて、一人で歩けないじゃない。また無理して怪我するよりも、しばらくうちで養生してから出発した方がいいわ」
「いえ、足以外は大丈夫ですから、きっと何とかなります」
「駄目よ。幾らなんでも、怪我人を外へ放り出すなんて私には出来ないわ。いいからしばらく休んで怪我を治しなさい。事故に遭うとね、今は大丈夫でも後からどこかが痛くなったりするものなの。もしも道端で痛くて動けなくなったりしてごらんなさい。また都合良く誰かが助けてくれるとは限らないわよ」
「はあ……」
 確かに、事故による鞭打ち症は遅れて現れるというのは聞いた事がある。僕にはそうのんびりしている時間はないのだけれど、明菜さんの指摘する通り、少なくとも足の怪我は一人でまともに歩くどころか立ち上がる事すら困難なものだ。大宮までは決して歩いては行けない距離では無いとは思うが、それはあくまで万全の時の話。明菜さんの言う通り、無理に向かった所で途中行き倒れになってしまう可能性は大いにある。
 目先の事に囚われて、後々の事まで見通せずに突っ走るのは賢い人間のする事じゃない。ここで焦って余計に状況を酷くしても良い事はないだろう。
「分かった? じゃあ、少なくとも普通に歩けるようになるまでうちにいなさいね」
「はい……分かりました。ではしばらくの間、お世話になります」
 心なしか明菜さんの表情が嬉しそうに見えたが、そこは敢えて気にしない事にする。
 ひとまず、当面の宿と食事には困らないだけでも感謝しなければならない。本当なら自分の不注意で負った怪我なのだから、もっと悲惨な目に遭ってしかるべきなのである。きっと運が良かったのだろう。車にはねられたのに足の怪我だけで済んだ事と、それをたまたま明菜さんのような親切な人がすぐに気付いてくれたから、僕は辛うじて助かったようなものである。
「着替えはどうしようかしら。まだ使ってなかった下着があったと思ったんだけれど」
「あ、別にそこまでは」
「いいのよ、どうせもう使わないものだし」
 明菜さんはそう微笑み、なんとなく僕もそれ以上言い張るのもどうかと思って言葉を飲み込んだ。まだ、少なくとも僕からの方には若干の違和感が否めない。僕は一人っ子だから姉もいないし、親戚縁者にもこのぐらいの女性はいなかった。だからうまく接しようとしても、どこかずれがあるような気がしてうまく接せていない気がするのだ。同級生の女子とはまた違う、形容し難い不思議な感覚だ。
「後で色々と着替え出してあげるね。多分、サイズは丁度いいと思うから」
 はあ、と気の無い返事を返し、僕は味噌汁をすすった。
 着替えって、まさか明菜さんの服では無いだろうな。幾らなんでも女物の服を着るのは耐え難い。それとも男物の服があるのだろうか? そういえば、このパジャマは誰のだろうか? 明らかに明菜さんのものではないし、彼氏とかにしては随分とサイズが小さいように思うのだが。