BACK

「……駄目か」
 茶の間で僕はPDAとにらめっこをしながら深く溜息をついた。PHSカードでのネット接続を試みてみたのだが、案の定リンクを確立出来ないでエラーを吐き続けられた。幾らなんでもカバーエリア外という事はないと思うのだが、おそらく通信機器が正常に稼動していないのか、もしくはプロバイダがもう機能していない可能性を疑うべきだろう。タイタニック号が沈没する時、音楽家達は最後まで演奏していたらしいけど、日本人もそういう気概で仕事をしているものだと思っていただけに幻滅は否めない。
 僕は温くなったお茶をすすり、がっくりと項垂れた脱力の姿勢でPDAの画面を見つめる。せめてネットに繋がれば、メールサーバーが生きていればメールチェックも出来るし、もしかすると家族からのメールが届いているかもしれない。そんな淡い期待を持っていたのだけれど、やはり現実はそう甘くないようである。
 こんなにのんびりしていて良いものなのだろうか不安になるほど、あまりにのどかだった。日本は少しずつ滅亡に向かって進んでいる。奈落という異常現象の接近、それに対して何も手を打てない政府、そして日本を見捨てる国民と自棄になった国民と。日本の国という概念そのものが崩壊しているのだから、僕は今すぐにでもどこか別な所へ避難しなくてはいけない。本当は時間など全く余裕が無いのだ。けど、日本が奈落に飲み込まれるまでの時間を考えれば、今は怪我をした足を治してから大宮へ向かうのが最善の選択であるだけに、これまでとのギャップに戸惑っているというのが本音だ。
 しかし、奈落とは一体何なのだろうか? 少なくとも単純な巨大な穴が地球に空いている訳ではないと思う。飲み込まれ消えた質量は地球上から消え失せている。化学の世界では質量は必ず一定に保たれるのが定説になっているから、地球上から忽然と消えてしまうなんて事はあり得ない。けれど、もしも奈落の正体が小型のブラックホールなんかだったりしたらどうだろう? ブラックホールの中心部は物理学が通用しないそうだから、質量が忽然と消えてしまうなんて現象も起こり得るかもしれない。
 その辺りをもっと突き詰めて調べてみたいけど、あいにくネットが繋がらないと調べようが無い。こういう調べ物をする時ほど便利なものはないのだが。非常時というものは何とも不便なものである。
 ふとその時、廊下の方からパタパタとスリッパで駆ける足音が近づいて来た。明菜さんだ。明菜さんには廊下を必ず駆け抜けるクセがあるようで、近づいてくるのがすぐに分かる。見た目に寄らず随分とせっかちである。
「ねえ、雄太君。ちょっとこれなんだけど、サイズ合うかな?」
 茶の間に現れた明菜さんは、ジャケットやらズボンやら服をごっそりと塊のように抱えていた。それに上半身を遮られ、一体何処から話しているのかがまるで分からない。
「ちょっと、それ何ですか」
「これね、私の弟の服なの。大体雄太君と似たような体格してたから、きっと合うはずよ」
「合うはずって、僕はいつまでもゆっくりなんてしないですよ。幾らなんでもそんなには要らないです」
「ゆっくりしないって言ったって、雄太君は全然着替え持ってないじゃない。毎日同じ服じゃ駄目よ。あとこれ、まだ使ってないシャツと下着があったから使って。そう言えば雄太君はトランクス派?」
「なんていうか、その。そういうの堂々と訊ねるのって、女性としてどうかと思いますけど」
「そう? キミが気にし過ぎてるだけと思うよ」
 何となく僕は子供扱いされているような気がしてならない。確かに明菜さんの方が年上だろうけれど、せいぜい五歳ぐらいだ。明らかに大人と子供ほど格差があるとは思えないのだけれど、明菜さんからしてみれば年下の人間はみんな一括りにそう見えるのだろうか。
「そういえば、明菜さんはここで一人暮らししてるんですよね。今言った弟って?」
「私ね、弟がいるのよ。来年には中学生だから、丁度キミぐらいかしら」
「ちょっと待って下さい。僕、これでも中二ですよ」
「え、そうなんだ? ごめんなさい、そうとは知らずに」
 別段、僕は平均よりも身長が低い訳でも無いし、クラスでも真ん中ぐらいだから平凡なものだと思っていたのだが。しかし、小学生に思われたのは生まれて初めての事だ。明菜さんが年下を子供扱いする気質だったという訳ではなく、単純に自分がそれだけ子供っぽく見えていたなんてショックである。
「ところで、明菜さんの弟って今ここにいないんですよね? どこに行ってるんですか?」
「今うちにはいないわよ」
「いや、それは分かるんですけど」
 するとその時、突然明菜さんは身を乗り出すと卓袱台の方へ膝で擦り寄った。
「ねえねえ、これってゲームボーイ? うわ、懐かしいなあ。私も子供の頃遊んだよ」
 明菜さんは面白いおもちゃを見つけた子供のように、僕のPDAを取り上げあれこれ触り始めた。PDAはさっき僕がネット接続を試みていたから電源は入ったままである。そして明菜さんは明らかにキーボードの部分をあれこれ押している。その様を見た僕は、背骨が震えるようなざわついた悪寒を感じた。
「あれ? これってどうやったらゲーム始まるの?」
「ちょ、違いますよそれは! 乱暴に扱わないで下さい!」
 僕は慌てて明菜さんからPDAを取り返す。画面を確認すると、ホットキーに設定していたプログラムが立ち上がっていて意味の無い文字列が打ち込まれていた。普通にがちゃがちゃとキーを擦っても立ち上がったりはしないのに、一体どんな器用な操作をしたのだろうか。
「これはPDAというものです。ゲームじゃありません。携帯端末です。小さいパソコンのようなものです」
「こんなに小さいのが? じゃあもしかしてインターネットとか見れるの?」
「そうです。そういう事も出来ます。なので悪戯はしないで下さい」
 何とかPDAを取り戻して息を切らす僕に対し、明菜さんはきょとんとした表情で首を傾げている。どこまで分かっているのか非常に不安になる表情だ。少なくともゲーム機とパソコンの区別はついているだろうけれど、パソコンだから勝手に弄くっていいかどうかまでは無理だろう。これからはPDAは明菜さんの目の届かない所に置いておかなければ。
「明菜さん、もしかして機械弱いでしょ?」
「そんな事無いわよ。ビデオの録画ぐらい出来ます」
「僕のお母さんと同じセリフだ」
「キミって可愛くない」