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 昼食も終え、僕は相変わらず茶の間で時間を持て余している。時々PDAでネットワークへの接続を試みるもののまるでうまくはいかず、その内に諦めて行方不明者への伝言放送を続けるテレビを眺めていた。
 明菜さんは洗い物を済ませてからずっと編み物をしている。マフラーを編んでいるようだが、冬が来るまで日本はおろか地球が存在しているかどうかも分からないというのに、そんなものを作ってどうするのか非常に疑問である。きちんと先を見据えている訳ではなく習慣でしているのか、それともただの現実逃避なのか。明菜さんの性格からすると、現実逃避なんて悲壮的な事はまず有り得ないだろうから考えるまでもないか。
 普通なら今ぐらいの時間はバラエティや昼ドラなんかが放送されているのだけれど、今日は朝から単色字幕の臨時放送が続いている。画面には一分おきに発信者と伝言本文が表示される。移動の混乱などで家族と離れ離れになってしまった人や、自身の安否を伝えるような内容になっている。朝からこればかりが続いているのを見る限り、僕が成田で見舞われたような混乱は日本の各地で起こっているようである。でも改めて考えてみると、僕もこういう人達と同じ境遇、それも進行形であるのだ。
 不意に家族と連絡を取れない事が不安になり、テレビ画面の下部に表示されている伝言受付用の電話番号にかけようと携帯を手に持った。しかし携帯のアンテナはずっと消えたままで通話が出来ない事を思い出し、そのまま液晶も見ずに元の場所へ戻す。明菜さんにこの家の電話を借りようととも思ったが、何となくそれは気が引けた。それに、一日二日離れ離れになったくらいでオタオタしているように思われるのは好ましくない。
「あら、もうこんな時間。そろそろおやつにしましょうか」
 やがて明菜さんは柱時計を見上げながら網掛けのマフラーをカゴヘしまうと、勢い良く立ち上がってぐっと伸びをする。
「おやつって、まだ二時ですよ。まだ早いんじゃないかなあ」
「ちょっと準備に時間がかかるの。雄太君も手伝ってみない? 座ってばっかりじゃ退屈でしょ?」
「まあ、確かに」
 そう答え、台所に向かうべく僕も立ち上がろうとするもののやはり足が痛んで思うように動けず、またしても明菜さんに肩を貸してもらって場所を移した。
 随分と手の込んだおやつを作るみたいだけど、一体何を作るのだろう?
 朝食といい昼食といい、明菜さんが料理上手なのは確かだから期待は出来そうである。おやつぐらいではしゃぐような歳でも無いけれど、普段通りネットも出来ず退屈していたところではある。それに今まで料理なんてほとんどした事がなかったから、いい気分転換にもなるだろう。
 台所は意外と広い作りになっていたのだが、中央に雑然と物の並んだキッチンテーブルがあるせいで実際よりも狭く見えた。まず流しで手を洗い、僕と明菜さんはテーブル脇の椅子に並んで座る。
「あ、いい感じになってる」
 明菜さんがテーブルへ手を伸ばし取り上げて見せてくれたのは、小さめのガラスボウルに入った白と黄色の何かが入り混じったようなものだった。表面の光沢具合からして脂の塊のようである。
「何ですか、これ?」
「バターとショートニング。こうして、室温にさらして柔らかくするのよ」
 バターはとにかくショートニングってなんだっけ? マーガリンの仲間だったかな。
 普段聞き慣れない言葉に首を傾げるものの、明菜さんはそのまま手早くテーブルのあちこちに手を伸ばし、何やら器具や材料を集め始める。
「何を作るんですか?」
「パンを作るの。そうねえ、今日はホウレン草を入れましょうか。そうそう、確かベーコンがあったはず。後は牛乳ね」
 テーブルの前に一通り集め終えた明菜さんは席を立ち、忙しなく冷蔵庫の方へ駆けて行った。背中越しに冷蔵庫の中を覗き込んでみると、意外にも随分沢山の食材が入っていた。だがあまり綺麗に整理されているようではなく、何か一つを取り出すために幾つも物を出している。冷蔵庫も長い間開けっ放しで、ふと僕は東京電力のイメージキャラクタの顔を思い浮かべた。
 それにしても、一人暮らしだというのにどうしてあんなに食べ物があるのだろうか。この付近に未だ営業を続けるスーパーでもあるのか、もしくは元々まとめ買いや大量買いをするタイプの人なのか。多分後者だと思うけれど、そんな大量の荷物をどうやって運んで来たのかという疑問も残る。でも案外、大きなリュックを背負ってのしのし買い物に行っていそうだ。
「冷凍室で凍らしてたんだけど、三十分もしたら溶けるよね、きっと」
「まあ、そうでしょうけど。でも、ベーコンとか野菜とか、普通凍らせますかね?」
「だって、冷蔵庫が一杯だったんだもの」
 そう口を尖らせる明菜さんに僕は、典型的な整理整頓の出来ない人だと思った。そもそも冷蔵庫をそんな状態にしたのは明菜さん自身だ。計画性を持って物事に取り組まないから、そういう惨めな状況に陥るのである。
「さて、それじゃあそろそろ始めましょうか」
 まず明菜さんはボウルに何やら粉を二種類、それから砂糖と塩と牛乳を注ぎ込んだ。そして更にそこへコップに汲んだ水を少しずつ加減を見ながら足していく。具合を見計らうと、明菜さんはそれらを指で掻き混ぜ始めた。
「これって小麦粉ですか?」
「違うわよ。強力粉。学校でパンは作った事無い?」
「無いです。何か違うんですか? ぱっと見、全然小麦粉との区別がつかないですけど」
「普段食べるものの材料ぐらい知らないと駄目よ。パソコンしながらピザとコーラなんて生活でしょう?」
「明菜さんって昔の映画が好きでしょう?」
「昔って表現は失礼なんじゃないかな」
 どうやら明菜さんが作ろうとしているのはパンのようである。けれど、僕が知っているパンなんてせいぜいコンビニにあるようなものぐらいだ。子供の頃には近所にパン屋はあったけれど、それも潰れてしまって久しいし、あまり既製品以外のパンというものには縁がない。
 掻き回し続けたボウルの中が落ち着いてくると、先程のガラスボウルに入っていたものをそこへ落とし一緒に練り込み始める。しばらくしてボウルの中身は目に見える水分が無くなり、徐々に一つの塊へまとまっていった。明菜さんは椅子から立ちあがり、手のひらで体重をかけながらテーブルが軋むほど強く練り始める。初めこそボロボロにくっつきあっていた生地も、少しずつ弾性と曲面を帯び始めてきた。
「そろそろいいかな。雄太君もやってみて」
 明菜さんは僕の前にまな板を置くと、そこに強力粉をほんの少し敷いた。ボウルから取り出した生地は表面が荒く、小学校の頃に校庭の隅で見かけた石ころを想像してしまった。
「んーと、これってどうすればいいんでしょう? とりあえず見様見真似になりますけど」
「難しくないから大丈夫よ。私がしていたみたいに、表面がつるつるになるまで捏ねるの。こう手の平で伸ばしたり丸めたりしてね。男の子だし力あるでしょ?」
「まあやってみます」
 僕は椅子に座ったまま、明菜さんがしていたのを思い出しながら見様見真似でそれらしく生地の塊を捏ねてみた。しかし生地は驚くほどの強い弾性を持ち、力を込める僕の手を弾いているかのような勢いで反発して来る。
 結構力いるな……。
 確かに足を怪我して立てない分、体重もかけられないし思うような力を込められていない。けれど、それを抜きにしてもこの生地は押し込む僕の手へ強く反発してくる。どれだけ力を込めようとも、必ずその倍以上の力で反発して来るのだ。
「むむむ……」
 僕はいつしか我を忘れて生地と格闘していた。体重をかけられない分、背中の力も使い、腕だけで無く肩も駆使して力を込める工夫をする。それでどうにか生地を引き伸ばしてみると、驚くほどの滑らかな面が姿を表した。けど、それに見とれる暇も無くすぐさま伸ばした生地を再び丸め始める。生地は一度伸ばすとその弾性は桁違いになった。そのたびに僕は、奥歯を食いしばって何とか伸ばしてやろうとムキになり、怪我をした足もこわばるほど全身に力がこもる。
「はい、お疲れ様。そろそろいいよ」
 しばし時間を忘れて生地と格闘していると、明菜さんが終了の合図を出してきた。そこでようやく僕は自分が体中へとへとになるほど力を振り絞っていたのに気が付き、どっと疲労感が込み上げて来た。
 明菜さんはまな板の上で伸びている生地をつるりと撫でるようにして一塊にまとめると、それを粉の残ったままのボウルへと戻しラップをかけた。実に手早く慣れた手さばきだった。見るからにして無理に力を込めている様子も無い。おそらくパン生地の扱いには力以外のコツのようなものがあるのだろう。
「じゃあこのまましばらく置いて、発酵させましょう。少しお茶を飲んで休憩しましょうね」
 そう微笑む明菜さんに、僕はただ力無く一度だけ頷くので精一杯だった。