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 調理を再開したのは、それから三十分ほど経ってからだった。
 ラップをかけたボウルの中身は、今にも突き破ろうという勢いで生地が膨れ上がっていた。確か、小学校の頃に授業で習った気がする。パンの生地に混ぜたイースト菌が平温下ではゆっくりと膨張するとかそういう奴だ。同じ生地でもうどんが膨れないのはそういう理屈だ。
「さてと、ホウレン草とベーコンはどうなったかな。あ、ちゃんと溶けてるね。これなら大丈夫」
 明菜さんが冷凍庫で見事に凍らせたホウレン草の束とベーコンはすっかり霜が取れて元通りの色艶を見せている。けれど、解凍直後というだけあって妙な汁気でべたべたに濡れているので、少々味や食感については疑問符を浮かべたくなる。
「思ったんですけど、初めから電子レンジ使えば良かったんじゃないんですか? ほら、解凍機能もあるんだし」
 そう僕は冷蔵庫の隣にある白い電子レンジを指さした。しかし明菜さんは、
「駄目よ、電子レンジじゃおいしさが失われるわ」
「まさか。常温でだらだら溶かすよりは栄養損失少ないって聞きましたけど。あ、まさか電子レンジ使えないとか?」
「そ、そういう訳じゃないわよう。ただ、解凍の使い方が良く分からないだけ」
「分かりやすい調節ツマミがありますけどね。目安つきで」
 僕にしてみれば、わざわざ取扱説明書を読むまでもないほど電子レンジは直感的に扱えるデザインと性能を持っている機器だから、何も悩むような事など無いと思うのだが。やはり機械の苦手な人にとって、そういう感覚はまた違うのだろう。
 しかし、だったらどうして電子レンジなんて明菜さんは買ったのだろうか? 普通に温めるだけなら出来るのだろうか? きっと明菜さんの事だから、昨日の御飯を温めるぐらいにしか使っていないだろうけど。
「さて、それじゃあ具の準備をしましょう。パン生地に練り込むの。雄太君、包丁は使った事あるかしら?」
「学校の授業でちょっと」
「じゃあ大丈夫かな。雄太君はベーコンをみじん切りにして。あまり細かくしないで、少し粗めでいいから。その方が食感がいいの」
「分かりました。やってみます」
 僕はキッチンテーブルに向かって座り、目の前にまな板とベーコンを並べる。そして利手である右手に包丁を持った。普段は馴染みの薄いそれを手にするのは妙な緊張感があった。決して軽いものでもないのだけれど、心なしか右手が緊張で強張っている。
 包丁を持つなんて、本当に何年振りだろう?
 小学校の時は何も考えず無邪気に切ったものだが、こうして刃物を間近で見てみると異様な引力を刃から感じてしまう。刃物には魔力があるなんて人もいるが、多分その感覚は単に刃物というものを扱う事に慣れていないだけの新鮮さだ。
 そんな僕の後ろで明菜さんは、ガスコンロに火をつけ鍋でお湯を沸かし始めた。そして下手な鼻歌を交えながらホウレン草を水で丹念に洗い、大きくざく切りにしていく。非常に手慣れた包丁さばきで、初めからどこをどう切るのかイメージしているような迷いの無い動きである。さすがに慣れているだけあって、あんなに素早く刃物を動かしているのに全く危なげが無い。
 とりあえず、僕もやってみようか。
 食材に対して左手は第二関節部分で押さえ、包丁は手前から奥へ向かって力をかけて切る。大事なのは均等に切る事だ。均等に切り揃えれば最小限の時間で均一に加熱出来る。だから同じ調理をするにもうまく出来上がるし、何より見栄えが良く整う。
 ベーコンは薄いものの適度な固さがあり、包丁へかける力の加減が楽だった。そのせいか、少しずつ包丁を動かす手が早くなりテンポが上がっていく。それでも切り幅は乱れるどころかむしろ整ってさえいる。
 意外と大丈夫なんじゃないだろうか?
 包丁は不慣れだからもっと苦戦すると思ったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。このぐらいだったら大した事はない、明菜さんみたいな手つきで切り刻める。
「痛ッ!」
 次の瞬間、僕の右手には明らかにベーコンとは違うものに触れた感触が、左手の中指に冷たいものが食い込む感触が、ほぼ同時に走った事で頭の中が混乱して先に声を上げてしまった。
「雄太君!?」
 僕の奇声に慌てて駆け寄って来る明菜さん。そうしている内に、包丁を当ててしまった指からは滑らかな曲面を描きながら血が噴出してきた。あまりの勢いの良さに焦った僕は、ベーコンの脂にまみれているのも構わず傷口をぎゅっと強く握り締める。
「大丈夫? 指切った?」
「少し……」
「ほら、ちょっと見せて。早く手当てしないと」
 しかし動揺してしまった僕の右手は、怪我をした指を握り込んだまま固まってしまって動かせない。それを明菜さんが血まみれになった指を一本ずつ丁寧に開かせていくのを見て、自分の怪我を全部任せてしまいたい衝動に駆られてしまう。動揺して気が小さくなっているせいだ。
「うわ……ちょっと深いみたい。絆創膏で止まるかしら」
 すると突然明菜さんは僕の指を口で咥えた。
 あ……。
 原始的な消毒の意味なのだけれど、僕の心臓は痛みを伴うほどに大きく高鳴った。そんな自分の意外な反応に戸惑いつつ、背中が引きつるくらい力を込めて平静を装い続ける。そんな僕の奇妙な行動は明菜さんに伝わる事も無く、何度か溢れ出る血を吸い上げて傷口を確かめた。
「ちょっとこのまま押さえててね。すぐ救急箱持って来るから」
「は、はい」
 こくこくと頷くのも待たず、明菜さんはパタパタとスリッパを鳴らして茶の間の方へ駆けて行った。途端に静まり返ったように思うのは、台所が僕一人だけになったせいだけではないと思う。少なくとも、自分を落ち着けるに従って心臓の鼓動は平素に向かって落ち着きを始めている。
 うわ、びっくりしたな……。
 気が付くと、指を握る手が微かに震えていた。明菜さんにこれほど驚きを覚える事自体が意外に思えたが、すぐに考える事はやめた。いづれ、ここを出て行く自分には関係の無い事だからだ。