BACK

 人間は傷口を見つめる習性があるのかもしれない。
 気が付くと僕は包帯で巻かれた中指をしげしげと見つめていた。血はどうにか止まってくれているようだけど、傷口付近は僅かに血が滲んでいて赤茶けている。痛みは微かだが継続しているため、少しでも動かすと再びあのとんでもない勢いで血が溢れ出してしまいそうで怖い。
 茶の間には香ばしい香りが漂っている。台所のオーブンでパンを焼いてる香りだ。パン屋さんの香りはこんな感じだったと思う。日常にはあまり馴染みはないのだけれど、どこか落ち着ける心地良い香りである。けれど、それと同時に明菜さんの調子が外れた鼻歌も聞こえてくる。本当はケガの痛みを忘れるくらいにこの香りに浸りたいのだけれど、こうも堂々と下手な鼻歌を聞かされては、浸るに浸れず複雑な心境だ。
「はーい、出来たよ」
 しばらくして、明菜さんが台所からおぼんを持って現れた。おぼんから卓袱台へ移された白い大皿には、手の平大ほどの小麦色に焼けた丸いパンが幾つか並んでいる。あれから発酵を終えた生地には刻んだホウレン草とベーコンが練り込まれたそうで、表面には緑と赤茶の粒々がぽつぽつと浮かび上がっている。少なくとも見た目は、普通にパン屋に並んでいそうな出来栄えだ。
 ふと、突然台所の方からけたたましい音が鳴り響いた。ヤカンの中身が沸騰している音だ。
「お湯が沸いたみたい。今、お茶淹れるわ。紅茶は嫌いじゃないよね?」
「ええ、好きですよ」
 程なくして、カップとポットをおぼんに並べて明菜さんが戻ってきた。驚いたのが紅茶の香りだった。これだけパンの香りが充満している室内で、はっきりと存在感の分かる香りだった。
「もしかして、ティーバックのじゃないんですか?」
「そうよ。ちゃんとゴールデンルールで淹れたんだから。茶葉はとっておきのセイロンなの。高島屋で買ったのよ。結構高かったんだから」
「へえ、なんか凄いですね。ところでセイロンの何ですか、これ?」
「え? セイロンはセイロンよ」
「セイロンって品種が五つあるんですけど。セイロンファイブとか言われてる」
「……君は全部違いが分かるの?」
「いいえ。とりあえず、雑学を言ってみただけです。名前だけでありがたっちゃいけないですよ、っていう戒め的な」
「ホント、君は時々可愛くないわね」
 そう明菜さんは子供のように口を尖らせむくれて見せた。そんな幼稚な仕草は僕の同級生でもやらない。僕より年上なのに、時々こうやって子供っぽい表情を見せるのが明菜さんらしいと思った。そんな明菜さんに微笑み返している裏側で、こうやって明菜さんをからかうと落ち着く感情を、僕は密かに認識していた。多分それは、自分では存在すら否定したい感情なんだと思う。だから自分でも分かるのだけど、どうでもいいくだらない事にわざわざ噛み付くような真似をしてしまうのだ。
 ようやく揃って腰を落ち着けられると同時に柱時計が三時を指した。
 いただきます、と二人で挨拶をし、僕はまずパンを一個手に取ると、食べても大丈夫な温度まで冷めているのを確認してそのまま一口かぶりついた。まず最初に味わったのは歯触りだった。僕には、パンはすぐ口の中が乾いてしまう乾燥したイメージがあったのだけれど、予想外に粘りと腰のあるパンだった。表面はカリッとしているのに中は弾力があって、そのアンバランスさが心地良い。
 そして舌と口腔で感触と味を、鼻孔で抜けてくる香気を味わう。パンの画一的な味わいに対して、ホウレン草の香りとベーコンの固い食感は丁度良いアクセントだった。まさかこんなありふれたもので、これほどパンが美味しく感じるなんて、僕にとってはただただ驚きの連続だった。いつもコンビニで買うのは大きなソーセージが乗っかったやつとか卵とツナが入ってるとかそういうやつで、僕は特に不満も感じず美味しいものだと思って食べていた。しかし、それは大きな間違いのようだ。このパンに比べてみたら、あれはただの味が濃いだけのものである。
「どう? お味の方は」
「凄いおいしいですよ、これ。お店で売ってても普通に買っちゃいますよ」
「あら、凄い褒められ方。いいのよ、そんなに気を使わなくても」
「そうですか、すみませんでした」
「そこは素直に譲らなくていいの」
 けれど、おいしいというのは全く嘘偽りのない感想だ。人の手料理に飢えているからという理由もあるけれど、それを抜きにしても普通に美味しいと思う。こんなものを食べてしまっては、二度と店で売ってるような下手なものは食べられないんじゃないかという危惧さえある。
「明菜さんって本当に料理が上手ですね。どこで覚えたんですか?」
「昔からしていたからよ。うち、お母さんがいなかったから、私が代わりに」
「ああ、なんと言うか、その、そうですか……」
「しおらしくしなくていいわよ。別に死んだとか、そういうのじゃないから」
「いや、そう言われると余計にキツいんですけど」
 今更だが、明菜さんの生活はかなり変わっていると思う。そもそも今はどういう身の上なのかも分からないのだ。一人暮らしで一軒家なんてあまり聞かないし、他に住んでいる人も見当たらない。単にどうなっているのか訊ねればいいのだけど、今の言葉でまた少し気が引けてしまった。あまり根掘り葉掘り問い訊ねては欲しくない、そんな空気を明菜さんから感じる。
 若干小腹が空いていた程度だったのだが、あっという間にパンを五つも食べてしまった。あんまり夢中で食べたせいで、満腹感を後から感じてしまったくらいだ。その上、明菜さんがどれくらい食べたのかも覚えていない。まるで初めてチョコレートを口にした子供のような醜態だ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様。少しお昼寝でもしたら? お腹を休めた方がいいわ」
「そうですね。でも、もう一杯だけお茶下さい」
 紅茶の事なんてほとんど分からない僕だが、何となくこの紅茶は普通とは違っている事が感覚的に分かった。本当に高いお茶は百グラムで何千円もするらしいけれど、そういう類のものと考えると美味しいというよりありがたみの方が優先してくる。高いから美味いというのは成金の発想だと思うが、その理屈を理解出来ないのは貧乏舌の固定観念なのだろう。あまり値段の事は考えないで、ただ純粋に味わうのが良いと思う。
「あの、つかぬ事を訊きますけど。いいですか?」
「なあに? どうぞ」
「明菜さんはどうして避難しないんですか? 日本が無くなるっていうのに、ここで随分のんびりと暮らしてるようですけど。何かアテでもあるんですか?」
「どこに逃げても一緒じゃない。奈落は誰にもどうしようもないんですもの」
「まあ、そうですけどね」
 でもそれは、逃げる事を放棄しているという意味ではないだろうか?
 思わず僕は何かを訴えようと口を開きかけるものの、それよりも早く明菜さんが口を開いた。
「ふふん。実はね、ここで大切な人を待ってるのよ」
「彼氏とかです?」
「そうだったらいいなあ。なんてね、冗談よ。冗談。本気にしちゃイヤよ」
 そうおどけながら、明菜さんは空になったカップへ紅茶を注いだ。
 どこまでが冗談か僕は訊けなかった。代わりに僕は、そうですか、とだけぽつりと答えた。やっぱり、あんまりその辺の事情には首を突っ込むべきではないと思う。無邪気を理由に無神経な質問が許されるほど、僕は子供ではないのだから。