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 日も落ちて夕食も終えいつもよりも困難な入浴を済ませると、僕は明菜さんと共に茶の間にてくつろぎの時間を過ごしていた。
 テレビはどうせ字幕放送ばかりなので昼間からずっと消したままだ。部屋の中には音源が他にないため耳鳴りがするほど静かになった。明菜さんはあまり気にしないそうだが、せめて音楽でもかけられればとは思ったが驚く事にこの家にはプレイヤーの類が無いそうだ。いっそPDAをプレイヤー代わりにしようかと思ったが、MP3の入ったマイクロドライブはどうせ必要無いからと家に置いて来てしまっている。
 こんな状況で、というのもおかしな話だが、テレビもネットも無い環境では娯楽に困った。そこで何か無いかと明菜さんに訊ねてみたところ、意外なものを引っ張り出してきた。多分、子供の頃に友達の家で何度か遊んだぐらいだろう、人生ゲームである。
「うわ、株が暴落した! 三万ドルかける……六枚分か」
「株は駄目だよ、ギャンブルみたいなものだからね。もっと保険にお金使わないと。あ、やったあ、満期になったから十万ドルね」
 二人でボードを囲みながら一喜一憂する様は、客観的にはとても見ていられない姿だと思った。それは僕の主観でただの照れ隠しなんだろうけど、いい大人がゲームに入り込んではしゃぐのは普通に考えても恥ずかしい事だ。でも、こういう状況じゃなくても楽しいものであれば、誰でもはしゃいでしまうものなのかもしれない。考えてみれば、僕もこうしてはしゃいだのは随分久しぶりのような気がする。普段は独り言も多く、無機なモニターばかり見つめて過ごしてばかりだから、こういう慣れない事にはどうも裏側では戸惑いが隠せない。
 ゲームを都合三順ほどした頃、ふと時計を見ると時刻は十一時を回っていた。普段ならまだ眠るには早いのだけれど、何となく今夜はもう眠ろうかという気分になった。色々あり過ぎて体が疲れているという事もあるが、それ以前にこのまま夜更かしをしても何もやる事が無いということの方が強い。インターネットに漫画、音楽、等々。娯楽は消耗品だと言うが、如何にそれらが溢れた環境にあったのか再認識させられる。
「そういえば、さっきもメール? なんかしてたよね。何か見れた?」
「いえ、全然。ネットワークにも繋がらなかったし。やっぱ死んじゃってますね」
 卓袱台一面に散らばったドル紙幣を色ごとに集めながら、ふと明菜さんがメールの事を訊ねて来た。今日は何時間かごとにメールチェックのためネットへの接続を何度か繰り返していたのだけれど、一度として接続が成功した試しはなかった。PHSカードは一応反応はするけれど、必ずエラーランプが点滅してしまってリンクが確立出来ないのだ。
「携帯のも駄目?」
「はい。というか、こっちの方が先に駄目になっちゃいましたし。まあ、順当な結果ですかね」
「そう。お家の方に連絡が取れればいいのだけど、こんな状況じゃ仕方ないわね。あ、そうだ。うちの電話を使ってみたら? 携帯が駄目でも、普通の電話ならまだ通じるかも知れないわ」
「もしかするとそうかもしれないですね。じゃあ、ちょっとお借りします」
 昼間に一度、借りる事は考えたのだけれど意地を張ってそれを自分からは言い出さずにいた。けど、明菜さんから言い出した分には何となく面目を保てたような安心感がある。変なプライドだな、と相変わらず自嘲する気持ちもあったが、もしかするとこの電話ならばという期待感の方が強いせいか俄かに気持ちが躍り出した。
 明菜さんの固定電話はカールしたコードの有線式という随分と型の古い電話だった。その上、ナンバーディスプレイにも対応していない。これだと、単純な明菜さんの事だから電話を使った詐欺なんかあっさり引っかかるんじゃないかと僕は思った。
 受話器を耳に当てながら自宅の電話番号をゆっくり確実にダイヤルしていく。いつの間にか自分の指先が微かに震えているのを見つけてしまった。なんでこんな事ぐらいで震えるのだ、と驚きすら感じたのだが、きっとそれだけ僕の中には家族に会いたいという気持ちが強く現れているのだろう。
 ダイヤルしてすぐ、受話器から発信音が聞こえて来た。アナログ電話の仕組みはそれほど詳しくは無いが、これは少なくとも電話局がまだ生きていて機能していることを意味している。そして電話線も断線はしていない。もっとも、電話線は電柱の上を走っているのではなく地下に埋め込まれているのだから、滅多に断線するなんて事は無いのだけれど。
 待ち切れず速いテンポで何呼吸かした後、不意に発信音が途切れブツッという独特の音が聞こえて来た。僕は反射的に誰かが電話に出たのだと思った。しかし、
『この地域の電話回線は現在大変混み合っております』
 受話器から聞こえて来たのは自動音声によるアナウンスだった。
 ちっ、なんだよ……。
 急に落胆を覚えた僕は声を荒げる気にもなれず、そのままそっと受話器を戻した。
「なんか駄目でした。回線が混み合ってるみたいで」
「やっぱり、みんな考えることは一緒なのね。また明日にでもかければいいわ。無理に急ぐ事はないんだから」
「そうですね」
 人生ゲームを箱にしまい茶の間が片付くと、僕は明菜さんに肩を貸され朝に目を覚ました部屋へと向かった。
 今更言うのも何だが、明菜さんは寝具に着替えているから非常に薄着な感じになっているので、無防備というか何というか、もう少し僕に対する配慮をどうにかして欲しいと思う。どうしてこう直接的にしろ間接的にしろ、接触する事に躊躇が無いのか。僕を子供扱いしているとかではなく、単純にそういう概念が無いだけだろう。つまりは能天気なのだ。
「一人で寝れる? お姉さんと一緒に寝ようか?」
「からかうのはやめて下さい。そこまで子供じゃないですよ」
「ごめんごめん、ちょっとはしゃぎ過ぎたわね。久しぶりに人と話せるのが嬉しくて」
「まあ……別にいいですけど」
 久しぶりに、とはどういう事だろう?
 またしても明菜さんに対する疑問が浮かんだ。今、僕が着ているのは明菜さんの弟のものだというパジャマだ。今この家にはいないらしいけれど、明菜さんの言葉をそのまま取ったら随分と前からいない事になる。
 なんだか本当に複雑な事情がありそうだ。それこそ、平日の昼間辺りにやってるドラマのような。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 そう就寝の挨拶を交わし、明菜さんは更に廊下の奥へと向かっていった。僕は怪我をした足を気遣いながら恐る恐る布団の中へ入り、肩まできちんと毛布をかける。
 他人の家で寝る事ほど違和感を覚えるものはない。けれど、体が程好く疲れているせいか、すぐに僕は眠りに落ちてしまった。
 本当は自分の家で眠りたかったのだけれど、とにかく今は怪我を治すことに専念しなくては。今日はただでさえ余計な事をして怪我を増やしてしまっているのだ。早く治して家族と連絡を取り合流しなければ……。