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 目が覚めると、そこは見慣れない天井だった。
 ハッと息を飲み心臓を高鳴らせる。そして僕はようやく、ここが明菜さんの家である事を思い出した。
 会ったばかりの他人の家で一晩過ごしてしまった。あくまで僕が足首を捻挫したのを心配して、好意で泊めてくれたのだけれど。なんとなく、情けない気持ちになった。まさか自分が人の手を煩わせるなんて。いわゆる恥の概念というものだけれど、今まで人に迷惑をかけない事を信条としてきた僕にはなかなかショックな現実だ。
 上体を起こして両腕を天井へ突き上げながら背骨を伸ばす。それからやや前に屈んで捻挫した右足首を触ってみた。指で押してもほとんど痛みは無く、手のひらで触った限り熱っぽさはない。捻挫のような関節の怪我は炎症を起こすと厄介なのだが、そこまで酷い怪我ではなかったようである。変な表現だが、きっと綺麗に挫いたのだろう。
 恐る恐る布団から立ち上がってみる。右足に体重を徐々にかけてみると、足首の中心の辺りからじんわりと痛みが走った。さすがに一晩で全回復とはいかないだろうが、この調子なら明日にも完全に回復しそうである。
 先行きが明るくなった途端、何だか気分が晴れやかになった。昨日はほとんど重い心境を引き摺っていたけれど、今日は打って変わった清々しい一日が過ごせそうである。起き抜けでテンションも高く、今日一日は活動的に過ごしたい心境だった。
 耳を澄ますと、台所の方から包丁の音と明菜さんの下手くそな鼻歌が聞こえてくる。多分、朝食の準備をしているのだろう。気分が乗っているせいか、何だかいつもよりもお腹が空いている。こういう生理現象はやはり気分一つで変わるものなのだろうか。
 布団を上げて、服を着替え始める。さすがに早朝だけあって素肌を外気に晒すのは少々辛い。僕はいつも起きる三十分ほど前からタイマーでエアコンをつけて起きるのだけれど、この部屋はエアコンが無いだけでなく風通しがいいせいで冷たい空気が絶えずどこからか差し込んでくる。やはり年季の入った家だから、隙間風も多く入るのだろう。
 テンションを上げたまま一気に服を着替え、軽く摩擦した皮膚が帯びる熱に心地良さを覚える。そしてもう一度、両腕を天井へ突き上げて背骨を伸ばし、今度は左右へ順に捻って音を鳴らした。寝慣れない布団で寝たせいか、いつもより体がこっている気がする。けれど眠気はほとんど無いから、眠るには十分眠ったのだろう。
 僕は部屋をぐるりと見渡してみた。学習机と本棚、そして和室には不似合いのクローゼットと、比較的簡素な様相だ。八畳ぐらいの広さだけど、布団を押入れにしまってしまったらかなり広く感じそうである。
 ふとした好奇心から、学習机を引き出しを開けない程度に見回してみた。文房具類が幾つかと小学校で使う教科書があった。歴史の教科書を手に取ってパラパラとめくってみると、案の定歴史上の人物の顔には落描きがしてあった。しかもただ描き加えるだけでなく、消しゴムで部分部分を消す事で斬新な形状を描き込むようなテクニックまで使っている。僕も同じ事をした覚えがあり、自分では物凄く斬新な手法だと思っていたけれど案外誰でも思いつく有り触れたものなんだなとしみじみ思った。
 僕の経験上、活発な性格の人ほど教科書はくしゃくしゃに折れ曲がる。他の教科書類の疲労具合も見ると、持ち主は僕と同じか若干おとなしいくらいの性格だろう。ただ、歴史の教科書だけが例の落描きでやたら疲労しているところを察するに、あまり勉強は好きでは無さそうである。そこは僕とは異なる点だ。
 今度は本棚の方へ移った。そこに収まっている本のラインナップを見ると、どれも昭和初期以前の作家が書いたものばかりだった。太宰治に有島武郎、芥川龍之介。国語の教科書ではたまに見かける名前だが、小学生が読むような作家ではなかったような気がする。割と愛憎入り混じったどろどろ話が多かったように思うが,小学生にそういうのはあまり情操教育に良くないんじゃないだろうか? もっと擬人化した登場人物の物語のような、都合のいい展開の話で言葉を覚えるべきだ。
 僕は純文学の読書の趣味は無いのでなんとも言えないが、記号化されたどうでもいい雑文よりかは読書する意味のある本ではあると思う。けど、この部屋の住人はあまりジャンルの趣味は良く無さそうだ。小学生で太宰の心中話なんか読んでも、何が面白いのか理解に苦しむ。昔の若者は小説を読んでいると、脳が腐ると大人に怒られたそうだが。多分、今の僕も似たような気持ちだ。
 一人微苦笑しながら、本の背を人差し指でつーっとなぞった。あの明菜さんの弟なのだから、一癖二癖あっても不思議ではないと思う。むしろ、ここに物理学や経済学の本があった方がよほど異常だ。いや、それはさすがに言い過ぎか。
 その時、不意にパタパタとこちらへ向かってくるスリッパの音が聞こえて来た。明菜さんだ。
「雄太君、起きてる? もう朝だよ」
「あ、はい。もう起きてますよ」
 そう答えて僕は障子を開け廊下へ出た。
「おはようございます」
「おはよう。足、大丈夫? 一人で立てる?」
「ええ、思ったよりも痛みは引いてました。普通に生活する分には大丈夫です」
「そう、大事にならなくて良かったね。洗面所はあっちよ。顔を洗っていらっしゃい。朝御飯の準備も出来てるわ」
 明菜さんに顔を拭くには大きい青のタオルを手渡された。スポーツタオルのようで、やや重く手触りがしっかりしている。銀行の粗品ではなさそうだし、見るからに運動の出来なさそうな明菜さんのものとも思えない。多分、これも明菜さんの弟のものだろう。