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 左手は怪我をしているため右手だけで顔を洗い、鏡に映った自分の顔を見て、少しやつれたな、と小さく溜息をつく。
 ほんの短期間で色々な事があり過ぎた。ある日、奈落という冗談みたいな現象が起こったせいで、日本の余命が決定されてしまった。それからは国内情勢は荒れに荒れ、僕の日常も一変することになってしまった。マレーシアへ避難する事になったけれどテロに巻き込まれ、家族と会うために実家へ戻ろうとしたら今度は車にはねられた。そして今は見知らぬ女性の家に厄介になっている。随分と突拍子も無い展開だけれど、とにかく未だ命があるだけでも幸運である。警察はほとんど機能していないのだから、これだけの事件に巻き込まれて無事でいるのは奇跡的だ。
 まだ痛みで違和感のある足を引き摺るように茶の間へ向かうと、明菜さんが卓袱台の上に朝食を並べていた。今日のおかずは目玉焼きときんぴらごぼうだ。火から下ろしたばかりの味噌汁もある。
「さ、御飯にしましょ。早く座って」
 お腹が空いていた僕はすぐに自分の席へ座る。そして明菜さんと一緒に手を合わせ、いただきます、と初めの挨拶。それから明菜さんが鍋から湯気の立つ熱い味噌汁をよそって伸べてくれた。まだ水の冷たさで悴んでいる手で箸を寄せながら一口つける。明菜さんの作る味噌汁は薄味で、非常に僕の好みに合うものだった。朝の寒さも手伝ってか、すぐに半分ほど食べてしまう。
「目玉焼きは何つけて食べる?」
「あ、僕はケチャップ派なんですけど」
「えー、変わってるのね。普通はお醤油じゃないの?」
「僕なんてまだ普通ですよ。僕の父親はマスタードですから」
 明菜さんが台所から持ってきてくれたケチャップを受け取り、早速目玉焼きの上にぐるぐるとケチャップで円を三重に描く。それからまだ柔らかい黄身の部分へ箸を刺して軽くかき回しケチャップと馴染ませる。それから六等分に切って食べるのが僕のスタイルだった。一方、明菜さんは軽く醤油をかけた後、何故か目玉焼きを縦に切り始めた。当然だがそう簡単に切れるものでもないため、乱線は更に乱線となり、最終的には黄身が皿中に広がった酷い惨状になってしまった。それをくるりと巻いた白身へ絡ませて食べている。目玉焼きには人それぞれの食べ方があると聞いたけれど、確かに同じ食べ方をする人を僕は未だに見たことが無い。
「ところで明菜さん、僕が寝たあの部屋ってもしかして弟さんの?」
「ええ、そうよ。全然飾り気ないでしょ? もっとこのぐらいの歳の男の子は、蛍光色色素の女の子のポスターとか扱いに色んな意味で困る本とかあるはずなのにね」
「明菜さんって、実は意外とテレビ見てるでしょう? じゃなければ週刊誌とか」
「偏ってなんかいないわよ。私の友達がそういう話題をよくしてくるだけ」
「誰も偏ってるなんて言ってませんよ」
「でもテレビで人気なんでしょ? そういうの」
「テレビというかテレビ東京というか。まあともかく、僕は弟さんとは少なくとも小説の趣味は合わなさそうです」
「そう? ほら、雄太君って何か理屈っぽい所あるから、ああいう小説なんか読んでると思ったんだけど」
「だってあの小説、全部自殺した作家ですよ。作為的にしろどうにしろ、ちょっと病的だなあ」
「え、そうなんだ……? 確かにそれはちょっと悪趣味だね」
 味噌汁を全部食べ終えると、明菜さんにもう一杯と勧められた。まだ体が温まり切っていない僕はそれに応じる。すると明菜さんは最初よりも更に沢山の具を盛り付けてくれた。けど僕は、ちょっとそこまで沢山はいらないなと心の中で眉を潜めた。およそ、僕ぐらいの年齢では食べ盛りという単語でくくられ、必要以上に食べる事を強要されがちだ。確かに間食が無ければ少し辛いけれど、そう毎度毎度勧められてもその時々の体調もある。特に朝はそんなに食欲はない。けれど、何となく明菜さんには世話になっている身だから、そういう個人的な好き嫌いをいちいち主張する訳にもいかない。
「朝御飯は毎朝作ってるんですか?」
「そうよ。私、大学に通ってたんだけど、お弁当も一緒に作るの。だから朝はいつも早いなあ」
「何時ぐらいに起きるんですか? ほら、女性だと男と違って準備にも時間かかるでしょう。御化粧とか」
「五時過ぎくらいかしら。私ってほとんど御化粧しないから、そんなに準備はかからないわ」
「ふうん、なんか所帯染みてますね」
「よく言われるわ、友達から。私にしてみれば、この方が自然体なんだけどね」
 朝食が終わり、僕はテレビもつけずにのんびりとお茶を飲んでいた。テレビの無い朝にも既に順応してきているためか、それほど静寂が苦痛には思わなくなった。しかし、相変わらず明菜さんの下手な鼻歌だけは耳慣れない。今も台所で洗い物をしながら三曲目に突入しているが、どの曲も音程がばらばらでほとんど同じ歌にしか聞こえない。
 お茶を飲み干すと、僕は再び家へ電話をかけてみた。昨夜は回線が混み合っていたせいで断念したが、もしかすると今の時間帯なら繋がるかもしれない。家に家族が到着していることと回線が混み合っていない事が前提となるけれど。
 受話器を耳に当て家の電話番号をダイヤルしてみる。僕は呼び出し音がガチャリと切り替わり母親あたりの声が聞こえてくるという状況を想像しながら電話口に集中した。しかし、今度はアナウンスどころか呼び出し音すら聞こえてこなかった。何度かプッシュしダイヤルを試みてみるものの、一向にうんともすんとも言わず沈黙を続ける。
 ……おいおい、マジかよ。
 十数回、同じ事を繰り返した後、僕は幾ら繰り返しても駄目だと悟り諦めて受話器を置いた。遂に交換局が潰れたか、電話線が物理的に断線したのか。ともかく、ここの家の電話は機能しなくなってしまった。
 ふう、と溜息をつくと、その声が予想以上に大きく焦って台所へ目をやる。明菜さんは相変わらず洗い物をしながら下手な鼻歌を続けていて、こちらの様子には気付いていない。それに安心した僕は、今度は小さく音を立てぬように溜息をもう一度ついた。
 電話は使えなくなった。その内回復するかもしれないけれど、保障はない。何か別な連絡手段を考えなければいけないけれど、ネットも電話も無理ではもはや打つ手は無いような気がする。
 付近の家へ片っ端から侵入して電話を借りてみるか? いや、そもそも交換局が機能してなければどこの電話を使っても一緒だ。似たような理由でネットも無理だろう。光回線はNTTの交換局とは独立しているのだろうか? その辺の事情までは分からないけれど、こんな辺鄙な所だとそもそも提供エリアに入ってるかどうかも疑わしい。
「あー、もう。打つ手なしかよ」
 僕は急に脱力し畳の上へ四肢を投げ出して寝転んだ。その拍子に昨日包丁で切った左手をぶつけてしまい、その痛みで眉間に皺を寄せる。
 何もかもが気に入らなくなった。僕は物事が自分の思い通りにならないと不機嫌になる癖があると学校の先生に言われた事がある。客観的に見てもその指摘は多分合っている。けれど、よりによってその気分の悪い時に指摘されたから素直に認めなかった。まだそういう所が子供染みている。もう少し何事に対しても余裕を持てるようになりたいと、そう左手をさすりながら思った。
 腹立ちを紛らわすべく、僕はPDAにPHSカードを差し込んで電源を入れた。
 昨日はずっとネットワークには繋がらなかった。この界隈がPHSの通話エリア外だとは思えないが、繋がらないのはやはり事業者が営業を放棄しているという線が強い。混雑しているため、という理由でも動揺の現象はあるかもしれないが、この辺りにそこまで多くのユーザーがいるようには思えない。つまり単純に機能していない線が濃厚なのである。
 ネットワーク接続をタップし接続を開始する。昨日はこの後すぐにコネクションエラーが出て接続に失敗した。多分、今日も同じ現象に見舞われると思う。それでも万が一という事もあるから念のため、と自分に嘘をついてみるものの正直落胆の方が大半を占めている。要するに、自分の行動とは裏腹にほとんど期待をしていないのだ。
 しかし。
 あれ……?
 PDAの反応が昨日と異なっている事に気付いた。接続開始までメッセージが出ている。確か昨日はここまで表示されなかったはず。
 思わず浮き足立っている内に更にPDAの状態が変化した。PHSカードに緑色のランプが点灯する。
「おいおいおい、マジで?」
 アイコンが、オンライン状態になった事を示すアイコンに変わった。