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 あまりに予想外の出来事。気が付くと僕は夢中でメーラーを起動させていた。
 PDAの小さな液晶にゆっくりとメーラーのウィンドウが現れ、それから自分で設定した各メールアカウントのフォルダが出力される。僕は食い入るようにその様子を見つめながら、スタイラスでフォルダの一つをちくちく繰り返しつつく。選択したのは、家のネットのプロバイダから貰ったメールアカウントの設定フォルダ。ここのアドレスは家族全員の携帯に登録されているから、僕の携帯に連絡がつかない時はおそらくこっちに連絡を入れて来ると思う。
 やがてPHSカードの緑色のランプが何度か点灯し、メーラーがサーバーへ新着メールの問い合わせを始める。すぐに取得してきた新着メールの件数は辛うじて二桁を保っている。その左にスラッシュで区切られた取得件数が徐々にカウントアップしていくのだが、確かに一定の間隔でカウントアップされてはいくものの回線速度が遅いためなかなか波に乗れず、それをただ待つのは非常に歯痒い限りである。
「雄太君、どうかした? 何かどたばたしていたみたいだけど」
 ふと台所から明菜さんがエプロンで手を拭きながらやってきた。洗い物は済んだらしく、エプロンを外して卓袱台の上へ置き僕の隣に座った。
「これ、見て下さいよ」
「なあに? 私、最近のゲームは知らないわよ」
「だから、ゲームじゃありませんってば。ネットに繋がったんですよ。今、サーバーからメールを落としてる最中なんです」
 けれど、明菜さんはあまりよく分かっていないらしく、きょとんとした表情で小首を傾げた。僕が当たり前に使う単語も、機械オンチの明菜さんにしてみれば全く意味不明の言語に成り得る。識者としてそこはさりげなく教えるべきなのだろうが、僕はそれよりも目の前で進行している出来事の方に目が眩んでいた。
「うわあ、まさか本当に繋がるなんて。やっぱりベストエフォードだから回線取り合ってたのかな。回線業者よりもプロバイダの方が落ちるの先っぽいから、障害が起こったとしたらそっちだな。いや、待て待て。基地局やアンテナに問題が起こっていたと考える方が自然だぞ。ところでパケット圧縮サーバーは生きてるかな。しっかしメール遅いな。ヘッダしか持って来てないはずなのに」
 僕は周りが見えなくなるほど夢中になっていた。正直、自分でも何を口走っているのか分かっていなくて、ただただ思い浮かんだ言葉を次々と取り留めなく吐き出しているような状態だった。感激とか嬉しい気持ちは表に出す事を控えられると思っていたけれど、こういう不意の突かれ方をするとどうしても地が出てしまう。
「男の子ってよく分からない事ではしゃぐんだね」
「それは価値観の相違って奴ですよ。明菜さんだってはしゃぐ事あるでしょう?」
「昨夜の当てつけのつもりかしら」
「それは勘繰り過ぎです」
 それから間も無く、取得してきたメールの首題が一覧表示された。僕はスタイラスで画面をスライドさせながら必要そうなメールとそうでないものとを仕分けする。不要なメールにはチェックを入れておき、後からメールサーバーで削除するのである。
「欲情奥様の逆指名? 雄太君にはこういうのはまだ早いわよ。いけませんよ、もう」
「スパムですってば、こんなの。僕の趣味じゃありません」
「年上は趣味じゃないってこと?」
「だから、そういう意味じゃないです。明菜さん、スパムって知ってますか?」
「知ってるわよ、それぐらい。スーパーで売ってるでしょ。あれでカツを作ると美味しいのよ」
「ああもう……」
 くだらない事を言わないで下さい、と一言で切り捨ててやりたかったけれど、もしも本気で言っているのであれば、それを非難するのも可哀想である。かといって、懇切丁寧に噛み砕いてレクチャーしたらば、それはそれで明菜さんのプライドも傷つきかねない。下手に悪意がないだけに、明菜さんがこういう反応をした時にはどう扱ったらいいものか非常に頭を悩ます。
 しばらく首題をスクロールさせながら見ていたが、どれもこれもスパムばかりだった。この御時世になっても出会い系サイトなんか運営してどうするんだと、と正直疑問である。その上、これは半年前くらいから増えたのだが、いわゆるオカルトやサイコというカテゴリに属されるものが異様に増えてきている。これは魔神の与えし黒の祝福である、共に奈落へ飛び込みアンドロメダの楽園へ参りましょう、奈落とは虚数空間の悪戯である故にタキオンの実数運動を用いれば、等々。どれもこれも普通の感覚では笑いのネタ以外には到底成り得ないものばかりだ。出会い系のスパムなら理由が明確だから納得できるけれど、こういうものはジョークなのか本気なのか分からないから発信者の危うい精神状態に薄ら寒気を覚える。このご時世だからこ垣間見れる病魔のようなものだ。世の中の汚いものを押し込んでいた壷の蓋が、終末を切っ掛けに封切られた事で一気に噴出した。そんな感のある傾向だ。
 しかし、こうも友人のメールが無いというのもな……。
 あまりにジャンクメールが続いたせいか、不意に僕は物悲しさを覚えてしまった。おそらく携帯の方へ送っているだけなんだと思う。けれど、一人か二人くらいはあってもな、という気持ちもある。よくよく考えてみると、この先二度と会えないような状況なのだ。そうなると、まったく連絡が取れないというのはほとんど死に別れたといってもいいような感覚である。けれど、そんな僕もほとんど連絡を取ろうと出来ていないのだから、似たり寄ったりと言えばそれまでなのだが。
「ん……?」
 ふと僕の目が一件の首題に止まった。
 雄太へ。
 無作為に発信したのならば、到底分かり得るはずもない僕の名前が首題にされていたからである。
「あ、これ」
 送信者のメールアドレスを確認する。送り主は僕の父親の携帯のアドレスだった。受信した日付は昨日になっている。
 すぐさま僕は首題をタップしメールの本文を開く。僅かな通信時間の後、PDAの小さな画面にやけに綺麗に整形された日本語が表示された。父親の律儀で細かい性格が良く出ていると思う。
 雄太へ。
 成田空港にてお前と離れ離れになってしまい、行方が分からなくなりました。お前がこのメールを読んでいるのは何時になるか分かりませんが、きっと幾日も経っていない事と信じています。
 私達は今、大宮の自宅に戻って来ています。今、お前がどこにいるのかは分かりませんが、きっと同じようにこちらへ向かっているものと思います。
 家族はみんな無事です。お前が一日でも早く合流してくれる事を願って止みません。ですが、どうにか確保出来たマレーシア行きのチケットは、このメールを送った日から一週間後、その後はもう取れないようです。だから、少しでも早く連絡を取って自宅へ帰って来て下さい。私達は今日から一週間しか待つ事が出来ません。時間に律儀なお前の事だから決して遅れる事は無いとは思いますが、どうか必ず帰って来て下さい。家族みんなでマレーシアへ行きましょう。
 父親の文章は、丁寧に書こうとする気持ちと僕への親近感とを無理に同居させようとするから、いつも語感に違和感がある。その独特の文調を僕は何度も何度も読み返していた。気が付くと僕はぼろぼろと頬を伝うぐらいの涙を流していた。そんな自分の突然の反応が分からなかった。何故涙を流すのか、自分の反応が理解出来ない。自分は決して涙脆い性格ではないと思っていたのだけれど、流れる涙は間違いで出てしまった訳じゃなくて、幾ら止めようとしても止める事が出来なかった。
「良かったね」
 すると、急に明菜さんが隣から腕を伸ばし僕の頭を抱き締めてきた。ただでさえ動揺している所に予想外の感触で、僕は思わず混乱してしまいそのまま固まってしまった。それでも涙は後から後から流れてくるし、明菜さんの腕を振り払おうにも触れることすらおこがましいようで何も出来ない。
 そうしている内に少しずつ自分が収まって行くのが分かった。すると、自分の反応や心情の変異が一歩離れたところから見られるようになり、落ち着きを取り戻していく。明菜さんが体温を感じるほど側にいるのは照れ臭いのだけれど、不用意に口には出来ない居心地の良さがあることも否定出来ない。
 そうか、僕はようやく安堵したから涙が出てきたのだ。
 自分の不可解な反応にそう答えを結びつけ、僕はしばしそのまま目を伏せていた。