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「あの、明菜さん?」
 どれだけされるがままになっていただろうか。さすがにもういいだろうと思い始めた僕は、徐に明菜さんを呼んでみた。
「なあに? もう泣き止んだ?」
「何気に無神経ですね、明菜さん」
「いいじゃない、おあいこよ」
 そんな明菜さんの言葉に僕は思わず眉をひそめて見せた。けれど明菜さんはさもない事のように、ただ微笑んでは僕の額をつつく。
 とにかく状況は好転した。僕の家族は今、間違いなく家に戻って来ている。先の見通しがこれではっきりと立った。家族は昨日から一週間まで、家で僕の帰りを待っていてくれる。それまでに帰り着く事が出来れば良いのだ。
 頭の中が急に開けて色々な事が思い浮かんだ。足の具合を気にすること、ここと僕の家との位置関係、帰宅ルートの選別、日数と食料の確保。早いところ片付けてしまい、出発したい気持ちだった。けれど、まずは父親に返信する事にした。うちの父親にしては随分と長いメール、きっとそれだけ心配している事の現れだろう。
 僕はメーラーの新規メールのアイコンをタップし、早速父親への返信を作成した。
 父さんへ。
 息子だ。こっちは元気にしてるぞ。なんかバスがトラブって、そっちに着くのは少し遅れる。
 もう少し待っててな。絶対間に合わせるから。
 出来るだけ心配をさせぬよう、普段はあまりやらない文調で打ってみる。だが読み返してみると、父親の文章よりも更に違和感のある歪さが際立った。でも僕は、こんなものでいいだろうとメールを送信してしまう。あまり丁寧な文章を書いても、きっとあれこれ要らぬ不安をかきたててしまうからだ。しかし送った直後になって、父親の携帯もメールを受信出来ない状態にあるのではないか、という可能性に気付いた。続けて同じ内容のメールを自宅の共有アドレスに送ってみたが、僕以外にほとんどパソコンを触らない家庭だから、たとえ回線が生きていてもチェックする可能性は低いだろう。
 何はともあれ。
 次は地理の確認だ。帰宅ルートを見つけださなければいけない。
「ここって、確か春日部でしたよね。となると大宮はどっち方面へ行けばいいんだろう」
「うちの前の道路を進んで行けば国道に出られるわよ。そこを真っすぐ行けば大宮まで行けるよ。標識もあるし、迷わないはずよ」
「あ、思ったより楽そうですね。そうだ、GPSを使えばもっと情報が手に入るはずだ」
 僕は早速カード差し替えて作業を始める。
「なんだか急に活気づき始めたね。私、お茶いれて来るわ」
 夢中になってPDAに向かう僕に呆れたのかは分からないが、明菜さんは台所の方へと行ってしまった。僕は生返事を返しただけで、またすぐにPDAへ集中する。
「なんだ……?」
 GPSカードを使って位置情報の検索サービスを開始する。しかし、ソフトの動作が普段と異なっていた。いつまで経っても情報が表示されず、しばらく放っておいた後にコネクションの確立に失敗したメッセージが現れる。
 GPSは衛星中継、そのため基本的には日本中どこでもサービスは受けられるはず。携帯とは違って圏外は存在しないのだが。
 位置が悪いのだろうかと、僕は茶の間を出て廊下へ移り再度試してみる。だが、動作は同じで一向にサービスが始まらない。出て来るのはエラーメッセージばかりだ。
「おかしいな。くそっ、まさか衛星まで奈落に飲み込まれたなんて言うんじゃないだろうな?」
 奈落は地球上にある全てのものを飲み込みながら、今も成長を続ける巨大な穴だ。奈落の航空写真は存在しないのだから、やはり空に浮いているものであろうと飲み込んでも少しも不思議ではない。
 衛星が消えてしまったのか、サービスを提供していた他の拠点が死んだのか。GPSサービスはどこでも自分の現在地が分かる心強い味方だっただけに、突然の停止にはとにかく落胆の一言に尽きた。
「雄太君、そんなとこで何してるの? 電波入らない?」
 そこへ、おぼんにお茶一式を乗せて明菜さんが戻って来た。
「そんなところです。位置情報の検索サービスが止まっちゃって。ああ、これじゃあ歩くのは何か別なものを頼りにしないと。明菜さん、地図とかないですか? 地方版みたいな、ローカルな地図」
「そんなに慌てる事ないじゃない。慌てると大事な事を見落とすわよ。もっと落ち着いて、何が必要なのかを冷静に切り分けてから準備を始めても間に合うわ」
 思わぬ明菜さんの切り返しに、僕はハッと肩を強ばらせ息を止める。
「まあ……確かに」
 言われてみれば少し僕は浮かれ過ぎていたようである。確かに立ち行きが好転したのは喜ばしいことだけれど、その後の行動が軽率過ぎると大きな痛手も生みかねない。嬉しいからこそ慎重にならなければ。
 ただ一つ、いまいち納得出来ないのは、当の本人が浮かれた行動をしていたという事だ。でも、そういう指摘はただの揚げ足取りでみっともないのでやめておく。
 一旦PDAの電源を切り、明菜さんのお茶をゆっくりと静かに気持ちを落ち着けるように味わった。今日のお茶はプーアル茶だ。この独特の冷たい風味が苦手だという人もいるが、僕は結構好きな味だ。近所の中華料理屋が少し気が利いていて、お冷やの代わりに冷たいプーアル茶を出していた。プーアル茶は飲み過ぎるとお腹が下るらしいのでほどほどにしておいた方が良さそうだが、気を落ち着けるのに念のためもう一杯だけ戴いた。
「それにしても、娯楽が無いってのは暇なものですね」
「そうやってのんびりするくらいが丁度いいのよ」
「いや、実際全くのんびり出来る状況でもないんですけどね。奈落、あと一カ月かそこらで日本を飲み込むんですよ。明菜さんは逃げるとかそういう事を考えてないんですか?」
「私? 考えて無いわ。こんな言葉があるわ。『たとえ明日が世界の終わりであろうと、私は今日に種を撒く』。ルターだったかしら? 私もそうありたいって思うの。単純に、具体的な危機感を持って無いだけかもしれないけど」
「明菜さんにしては随分と崇高な思想ですね」
「君は年上をバカにし過ぎよ」
「バカになんかしてませんよ。尊敬します。ある意味」
「本当? ありがとう」
 そうして他愛も無い事で話し込んでいる内に昼になった。
 今日の昼食は、昨日焼いたパンの残りで作ったサンドイッチとかぼちゃのポタージュだった。サンドイッチなんてコンビニで売ってるような直角三角形のやつか、正方形のランチボックスぐらいしか食べた事がなかったのだが、明菜さんが作ったものは長方形の耳がついているサンドイッチだった。具もたっぷり挟んであって、倍近い厚みになっている。
「こういうサンドイッチって初めてです。随分しっとりしてるんですね」
「サラダオイルとレモンで作ったドレッシングがあるの。サンドイッチって口の中が乾くから食べにくいでしょ?」
「これなら大口開けてかぶりつけますもんね」
「お口の周りを汚した坊やが何を言うのかしら?」
 昼食を終え、再び畳みの上に寝転がった。満腹のあまり、しばらくは立ち上がりたくもない。一眠りもすれば目が覚める頃には楽になるのだろうけど、満腹も過ぎると逆に眠気がこなくなる。ただ、この内側から外へと向かう圧力が過ぎ去る事をじっと待ち続けるだけだ。
「ゆっくり食べないからお腹が苦しくなるのよ。はい、お茶」
 明菜さんが紅茶のカップを置く。僕はなんとかして起き上がり、カップを手に取った。中にはスライスされたレモンが浮かんでる。レモンティーだ。
「明菜さんは平気なんですか? 僕と同じくらい食べてたじゃないですか」
「私はゆっくり噛んで食べたもの。大丈夫よ」
 そう平然と答える明菜さんは、確かに僕のような過度の満腹感には見舞われていない。けれど、たとえ良く噛んで食べた所で食べたものの質量が減る訳じゃないし、むしろ時間をかけて食べれば満腹感が訪れやすくなる。明菜さんはこう見えて、かなり食べるのかもしれない。太っている人より痩せている人の方が食べるらしいが、案外その俗説は正しそうだ。
 レモンティーは普段特に飲む事が無い。ヨーグルトもそうだが、僕はこの酸味のある飲み物だけはあまり好きではないのだ。けれど、程好く胃が刺激される事で満腹感が和らいでくる感じがした。これは意外な発見である。一杯目を飲み干す頃には随分と楽になった。
「ねえ、雄太君。落ち着いたらちょっと外に出てみない? 足、大丈夫でしょ」
 明菜さんが二杯目をカップに注ぎながらそう訊ねてくる。
「いいですけど。何かあるんですか?」
「裏山。散歩にね」
 裏山って……ここはどれだけ田舎なんだろうか。
 山遊びなんて初めてだが、とりあえず歩く感覚を足に慣らしておくには丁度いいかもしれない。明日からはまた、とんでもなく長い距離を歩く事になるのだから。