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 それは、裏山というよりも小高い所にあるちょっとした原っぱだった。子供なら走り回って遊んだりするには十分な広さだ。
 家の裏手から舗装されていない小道を数十秒も駆け上った所だったが、勾配が急な分、高さは家の屋根よりも高い所にあった。ここだけがぽつりと隆起している訳ではないのだが、周囲のどの建物の屋根も見下ろせる風景はなかなか爽快だった。
「見て。ほら、結構いい景色でしょ?」
 明菜さんが指で示す先は、家からその先で東西に走る道路、そこから先はほとんど無人らしき家屋が立ち並んでいる。空は不気味なほど青く晴れていた。雲一つ無いのはみんな奈落に吸い込まれたからで、西から東へと吹く風もまた奈落のせいだと、何となく僕はそう思った。確かに高処から見る景色は壮観なものでどこか胸の躍るものがある。けれど、こんな景色に惑わされピクニック気分に浸っている場合ではないと、頭の隅から突っかかってくるものも否めない。もっとも、そういう焦りこそが致命的なミスを生むのだけれど。
「本当ですね。ここで御飯でも食べたら気分良さそうだ」
「それは名案ね。明日のお昼はここで食べよっか?」
「いえ、僕は明日の朝には帰ります。家族も心配してるでしょうから、早く合流したいんです」
「そう……ごめんなさい」
「いえ、その……こちらこそ。お世話になりました」
「また少し経ったら、お茶でも飲みましょう。ここでビニールシートを敷いて。パンも焼いて、それを食べながら」
「そうですね。今日は天気もいいですし、ピクニックには最適だ」
 どこからか、乾いた笑い声が聞こえて来た気がした。多分、聞こえているのは僕だけだと思う。急に明菜さんに対して申し訳なく思い、張子のように首を小刻みに動かして愛想の良さをアピールし始めた自分が、あまりに滑稽に思えたからだ。
 自分がこんな愛想笑いをするとは思ってもみなかった。僕は明菜さんに感謝していない訳じゃない。むしろ、見ず知らずの僕を親切に世話してくれた命の恩人でもある。本当は別れるにしてももっと色々礼儀を尽くすべきなのだろうけれど、僕にはのんびりしている時間が無い。僕の帰りを待っている家族がいるのだ。だから、どうしてもこういう唐突な別れ方になってしまう。不本意だが、今はそういう時世だからという逃げ口上を使わなければならない。
 それから唐突に、お互いの会話が途切れてしまった。明菜さんは何がある訳でもなく、ただただどこか風景を眺めている。しかし僕には風景を愛でる趣味も無く、かと言ってさっきの今で話しかける事も出来ず、ただ手持ち無沙汰のままきょろきょろしながら立ち尽くしていた。
 なんか気まずい。
 身の置き場に困った僕はそわそわと落ち着き無く周囲を見回した。けれど、ただの原っぱに特別変わったものがある訳でもなく、まるで自分が場の雰囲気に困っていると言っているようでますます気まずくなった。
「あれ?」
 いい加減何をどうすればいいのか困窮をも窮まった頃、ふと僕はあるところに目が止まった。
 原っぱの背後はただの雑木林と思っていたが、よく見るとそれほど深い林ではなく黄土色の断崖、剥き出しになった地層のようだった。黄土色の土は粘り気が無いので石のように割れるとか聞いたような気がする。言っていたのは、昔近所に住んでいたガキ大将だったように思う。
 なんとなく気になった僕はその方へ足を進め良く確かめてみる事にした。雑木林に足を踏み入れると、そこは林というよりは藪に近く、ちょっと掻き分ければすぐに抜けてしまう程度のものである事が分かった。更に突き進んで断層の前までやってくる。それは高台の上にあるもう一つ高台があるような様相だった。やはり地殻変動によって偶然出来ただけなのか、こちらはさほど高さはないようである。
「小学生なら登るのを競争しそうな所だな」
 下から断層を見上げる僕は、まるで動物園のサルの如く四足で登る子供達の姿を想像し軽く吹き出した。悪趣味な想像である。大人から見れば僕もさほどそういうレベルとは変わらないだろうし、目を向ける方向は自分の品性の方向だと父親が前に言っていた。何か父親らしい事を言おうとして難しい言葉を使い見事に外した典型的なセリフではあるが、言いたい事は十分に伝わる。要は僕に、自分よりも上の人間を見て切磋しろという事だ。
 ふと、自分が普段より父親の事をよく考えている事に気が付いた。普段はさほど気にも留めない空気のような存在であるが、それでも僕は彼を自分の父親として間違いなく認識しているのだと、そう思った。やはり父親というものは難しい人間だ。同性であるために何でもかんでも比較を引き合いに出してしまい、それが諍いの種を産んでやがては疎遠となる。正直、これで男の兄弟がいたらば更にとんでもない事になっていたと思う。そしてそれ以上に、父親も父親で心労が更に倍だ。とても長生きなんて出来そうに無い。
「お?」
 その断層を下から真上まで順に視線をだらだら走らせていると、頂上に何やら妙なものを見つける事が出来た。それは何か石か金属のような固形物で形作ったようで、明らかに自然に出来たものではない人工物である。もっとよく確かめようと左右に位置をずらしたりしてみたが、この位置からは角度の問題で良く形状は分からなかった。下から見上げる姿勢だから良くないのだろう。
 ここからでは確かめるのは無理だ。何とかして上へ登れないだろうか。そう思うや否や、僕は断層を長く削った小道のようなものを見つけた。多分、近所の子供達の仕業だ。元からあった窪みを何度も踏み固めていく事で、やがて小道のように舗装される。そうやって出来た道だ。
 勾配はかなり急だったが、僕はゆっくりと慎重に登り始めた。ざら土であるため、スニーカーでは少々歩きにくい。革靴なんかはいていたら一歩も進めないだろう。僕は一歩ずつ重心に気をつけながら片手を断層側へつきなはら上へと向かっていく。
「雄太君、何してるの。そこは危ないわよ」
 いつの間にか明菜さんが駆けつけてきていた。どうやら僕がいなくなっていた事に気付いたようである。
 明菜さんは丁度僕の足元辺りからこちらを見上げている。普段は僕の方が背が低く見下ろされてばかりなので、それが逆転するのは少しだけ気分がいい。
「いや、ほら。何か上にあるんですよ。それが気になって」
「駄目よ、危ないから戻ってらっしゃい」
「大丈夫ですって―――」
 その言葉は途中で息ごと飲み込んでしまって最後まで言う事は出来なかった。
 次の瞬間、唐突に足元の支えが崩れた。僕は一瞬の浮遊感と股の辺りから駆け上る悪寒を同時に身に受ける。思わず見下ろした足元は、まるで洋菓子のようにばっくりと割れる足場だった。乾いたざら土と思っていたが、中の方の土は黒くて大分湿り気を帯びている。この道を使っていたのはほんの小さな子供だったのだろう。子供だったらともかく、僕ぐらいの体重はとても支えきれなかったのである。
「危ない!」
 咄嗟に明菜さんが下から腕を伸ばして僕を支えようとする。僕は足を踏ん張って次々と崩れていくその場に留まろうとした。しかし、明菜さんに体を掴まれた事でバランスが崩れ、更に足を滑らせてしまった。僕の体は断層と明菜さんとに挟まれ絡まりながら下の地面へとまっさかさまに落ちていく。雑草の生えた硬い地面の上にお尻から着地した。
 その拍子に、僕は右足首に異様な感触を覚えた。足首を捻ってはいけない方向へ捻った、そういう感覚だ。