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 僕は半ば呆然としながら、足を伸ばしたまま座り込んでいた。
 僕の右足首にはきつく包帯が巻かれている。その下は厚く腫れぼったい感触があって、どことなく窮屈だ。痛みは鈍く断続的に続いているが、それとは関係無しに足がうまく動かせない。それだけ包帯できつく固定されているという事だ。
「マジかよ……」
 深く湿った溜息をつく。気分は酷く憂鬱で、気が付くと苛立たしげに首を捻り奥歯をがちがちと鳴らしていた。何か物に当たりたい、なんて幼稚な衝動すら沸き起こる。僕は物事が計画通りに進まないとすぐにイライラし始める性格である事は知っていたが、これほど冷静さを欠いた状態は随分久しぶりだと思う。もしかすると生まれて初めてのことかもしれない。
 苛立つ理由は一つ、これで明日にでも出発しようと思っていた予定が中止しなくてはならなくなった事だ。それにしても迂闊なのは、あんな所に平然と登って行った自分自身だ。少し落ち着いて考えれば、すぐにでもこれぐらいの危険は予測出来ていたはずだ。しかもよりによって足を、それもせっかく治りかけた方の足をもう一度怪我するなんて馬鹿げているとしか言いようが無い。人生最大の失敗だ。
「雄太君、ほら、お茶飲みましょう?」
 背後から紅茶の良い匂いをさせながら明菜さんが話しかけてきた。けれど僕は振り向きもせずに溜息をついた。
「いいです。なんかそんな気分じゃないし」
「もう、そうやって拗ねないの」
「拗ねてないです。余計なエネルギーを使わないで怪我の治療に専念するんです。知っていますか? 落ちている一円玉を拾うのは、実は五円分のカロリーを消費するんですよ」
「キミは拗ねる時も理屈っぽいのね」
 今度は明菜さんが溜息をついて見せたが、僕はそれを黙殺しまた溜息をついた。何だか溜息ばかりをついているが、そんな自分を改める気にもなれなかった。今はただ感情的に振舞って、気分が乗ってくるのを待ちたい。そんな稚拙なスタンスを寛容してしまえるほど気落ちしている。
 そんな調子でいる内に日が暮れ夜になった。明菜さんは僕をどう扱っていいのか分からないようで、普段とは違い口数が非常に少なかった。そうさせている事を申し訳なく思いはしたが、どうしても僕は他人までを気遣えるような心の余裕はなかった。ただ必要最小限の事を話す明菜さんを相手に黙って頷く、そんな姿勢に終始徹する。
 食事が終わり風呂へ入ると、早々と部屋へと引っ込んで布団に寝転がった。
 まったくもって、これからどうすればいいのか見えなくなってしまった。せっかく実家の状況が分かったというのに、自ら自分の動きを止めてしまった現状、まずは落ち着く事が最優先なんだろうけど、悲観的な事ばかり想像してしまって一つも建設的な事が考えられていない。遅くとも、あと四日以内にここを出れば十分間に合うとは思う。けれど、四日で足が治る保証は無い。もっと早く出て怪我を押してでも向かうべきだろうか、慎重にぎりぎりまで怪我の回復を待ってから出るべきなのか。その判断に迷う。
 もう何度目になったのか分からない、どうすればいいんだろう、という言葉の混じった溜息を天井へ吐く。そしていい加減に嫌気の差した僕は、部屋の電気を消して布団の中へ入った。
 とにかく寝るとしよう。こんな精神状態じゃろくに考えもまとまらない。
 布団の中で僕は目を閉じて眠る体勢に入った。けれど一向に眠気はやって来ず、むしろ目は冴え渡るばかりだった。寝よう寝ようという脅迫観念もあるが、ただ単純にこんな時間には寝れないという事がある。携帯を開いてみると、まだ夜の十時過ぎ。病気でもないのにこんな時間に寝ようとするのはおそらく小学生以来だろう。
 くそっ、やっぱり駄目だ……。
 それでもしばらく寝ようとする事を頑張っていたが、結局はうとうとする事も出来なかった。仕方なく体を起こした僕は、暗闇の中でPDAを探った。開いて電源をつけると、バッテリーのアイコンが残り僅かである事を示し点滅を繰り返している。充電をしなければと充電器を求めカバンへ手を伸ばしかけたが、何となくコンセントに差してといった一連の事が面倒になり、起こした体を布団の中へ戻した。そしてもう一度溜息をつく。
 布団の中で体位をうつ伏せにし、枕に顎を乗せた。電気をつけて何か本でも読んでみようかとも思った。小説なんか読んでいればやがて眠れるような気がする。けれど、作中のちょっとした表現で自分がバカにされているような気持ちに陥って余計に眠れなくなるような予感もする。それに、明菜さんの弟はただでさえ読書の趣味が悪い。たとえ眠れたとしても寝覚めは悪くなるような気がする。
 さて、眠くなるまで何をしていようか。
 そう思った時だった。
 ふと見た、目の前にある机の一番下の大きい引き出し。そこが僅かに開いていた。
 指先で軽く押せば閉まる程度の小さなずれだったが、誰かが最近開けたような痕跡に思えてならない。少なくとも僕は開けた覚えは無いから、明菜さんか明菜さんの弟だと思う。
 勝手に人の机を漁るのは、プライバシーの侵害だよな……。
 後ろめたさを覚えつつも、僕は好奇心に勝つ事が出来なかった。早速布団の中から這い出ると、静かに引き出しへ指をかけて開けた。
 目に飛び込んできたのは一台のノートパソコンだった。やや本体は厚く、ホームモバイルタイプといった様相である。メーカーもテレビで聞くようなメジャーなメーカーだ。
 久しぶりに触ったパソコンに、僕の気持ちは一気に踊り出した。すぐさま電源コードをコンセントへ差し込むと、ディスプレイを開け電源を入れて立ち上げてみる。一分も経たずにOSの起動が完了する。パスワードがかかっていたらどうしようかと思ったが、その点は問題なくデスクトップの画面まで行く事が出来た。どうやら自分以外には触る人がいない環境でつかっていたようである。
 マイコンピュータのアイコンよりパソコンのスペックを表示させてみる。性能は可もなく不可もなく、少し前の標準的なエントリーモデルだ。量販店で店員にパソコンが欲しいと言えば、まずこのぐらいのものが出てくる。次にざっとインストール済みのプログラムを確認してみる。幾つかゲームがインストールされていたが、どれも一般用の普通のものだった。日本製の歴史シミュレーションとパズルの落ちモノだ。
 さすがにそれだけではないだろうと、今度はハードディスクの中を浚い出す。
 マイドキュメントにはデフォルト以外のファイルは存在しない。続いてCドライブを見てみたが、直下には個人的に使うようなフォルダ名は存在しない。ファイル検索をかけるのは後に回し、今度はローカルドライブへ移る。すると、いきなり現れたのは、画像、動画、テキスト、というフォルダだった。やっぱりな、と思いつつ画像から開いてみる。しかしそこにあったのは猫、犬、その他、MADといったフォルダたちだった。試しに猫を開いてみたが、あるのは可愛らしい子猫の画像ばかりだった。犬には犬の画像、その他にはペンギンやらライオンやらが、MADには殴り合うドナルドとサンダースのイラスト、銃を持ったアメリカの大統領がロシアの大統領をお花畑で追いかけているコラージュ、そんなものばかりが並んでいた。いささか拍子抜けたした気分で動画のフォルダに移ったが、そこも似たような内容ばかりである。
 なんだ、この健全具合は……。
 別にそういうものに期待していた訳ではなかったけれど、あまりにも綺麗に整理されたかのような状況である。そしてもう一つ、僕は疑問に思う事があった。明菜さんはこの家にはネットの類は無いと言っていたにもかかわらず、明らかにこれらのファイルはインターネットを介して収集したものであるからである。ネットワークの設定を見ると、無線LANの構成が組まれている。しかもIDがMyHomeとなっていて、いかにも家で使うような名前である。明菜さんは単にこういう事が分からないから、あのように答えたのだろうか。
 疑問に思いつつ、最後にテキストというフォルダへ移った。ここは名前からしてとても期待は出来そうにない。軽く見てからファイル検索へ移ることにしよう。それからメールでも見るとしよう。
 テキストの配下には思ったよりも多くのフォルダが散在していた。ジョーク(時事)、ジョーク(海外)、マンガネタ、歴史(戦国)、脱法テキスト、まとめサイト、ゲーム攻略。どれも面白そうで微妙に興味のわかないタイトルだ。けれど、ここにある病的な小説よりはマシかもしれない。ブラックジョーク集なんて実は結構好きでもあったりする。ついでだからPDAで読む用に貰っておこうか。SDカードに対応している機種だから、簡単にコピーは出来る。
 お?
 不意に僕の目が一つのフォルダに止まった。そのフォルダには日記という名前がつけられている。
 さすがにこれは不謹慎だとは思ったが、やはり人のプライバシーを覗き見るという誘惑には勝てなかった。僕はほとんど躊躇いも無くフォルダを開いてファイルアイコンを展開する。フォルダ直下には各年月の名前のフォルダが並んでいた。その下には日にちの名前のテキストファイルがある。ファイルはかなりの数で、総量サイズは単純に一メガはありそうだ。随分まめな性格のようで、一日たりとも欠かさずに書いている。
 まずは真ん中辺りから。そう僕は適当なテキストファイルを開いてみた。
 ……は?
 だが、次の瞬間表示された先頭行の文字に、僕は思わずそんな声を呼気と共に発してしまった。
「僕は姉さんに殺される……?」
 どこからどう読んでもそれ以上それ以下でもない日本語が、テキストエディタ上に表示されているからである。