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 右足を微妙に浮かせた不自然な摺り足は、不必要に体へ負担を強いられたが思ったよりも物音が立たなかった。
 明菜さんの部屋は廊下の隅にある。露骨な物音を立てなければ、まず眠っているであろう明菜さんが目を覚ます事は無い。ただし、その物音の基準を普段通りに考えてはならない。夜になると周囲が物静かになるため音が響きやすくなるのだ。それに、原始の頃の人間が動物に襲われぬように夜の間は耳が鋭くなる、なんて俗説もある。安易に構えてはならない。しかし、その一方で思ったよりも冷静に状況を把握している自分に感心もしていた。かなり緊張で息遣いも荒くなっているのだけれど、ちゃんと自分以外の周囲にも気を配る余裕がある。
 廊下を伝い茶の間へ入る。柱時計は午前零時を指している。電気をつけないままでは薄暗かったものの、暗闇に目が慣れているせいかそれだけでも歩くには十分だった。
 早速電話台に向かい調べ始める。まずは電話線を見つけるべく、電話機を持ち上げ指先を頼りに電話線を探る。電話線は丁度裏側のお尻の部分から飛び出していてすぐに見つける事が出来た。次は電話線の差し込み口だ。今見つけた電話線を指先で伝いながらその場所を追う。電話線は電話台から隣接した柱にピンで打ち込まれている。それを更に伝っていくと、長方形の形をしたプラスチックの箱が爪に当たった。それは差し込み口ではなくスプリッタだった。電話回線とADSL回線とに分ける装置である。スプリッタはADSL側が空いていて、今は電話以外には使用していないようだった。
 やっぱりか……。
 僕はスプリッタを爪で弾き小さく溜息をついた。通常、電話を使うだけならスプリッタは必要ない。これは明らかに、ネット環境がここにあった事を示す何よりの証拠だ。
 一体どうして明菜さんはネット環境なんて無いと言ったのだろうか? 部屋にあったモデムを繋げばすぐにでも使えるはず。僕にネットを使わせたくない理由でもあったのだろうか?
 ぼんやりとスプリッタを突付きながら少し考え込んでみる。明菜さんは意図的に僕へネットを使わせないようにした。そして、明菜さんの弟のパソコンにあったあの文書。そこにどういう繋がりがあるのか、それはどう考えてもろくでもない事に決まっている。しかし、それはあくまでここの家庭内の問題だ。部外者である僕には一切関係は無い。ただ、決して僕自身も安全であるとは言えない。本当に明菜さんがまともでなければ、僕も同じような目に遭う危険性があるからだ。
 問題なのは、その危険性の度合いだ。果たして弟だけに向けられるものなのか、誰彼構わずターゲットには向けられるものなのか、それともあれ自体が単なる悪ふざけの文書だったのか。少なくとも、今日までの明菜さんの様子に異常な点は見られなかった。むしろ、見ず知らずの僕を介抱してくれたのだから親切な人の部類に入れてもいいと思う。もう幾日で世界が奈落に飲み込まれてしまうような世の中だから、治安の悪化に歯止めが利かなくなっているこの日本、こんな一銭の得にもならない事をするのだから、どう考えても親切心以外に理由が無い。
 そんな一方でこう思う自分もいる。実は、僕を弟の代わりにしているんじゃないだろうか。ネットを使わせようとしなかったのは、僕が家族と連絡を取るのを防ぐため。けど、本当にそうするつもりなら初めから電話も使わせないようにするはずだ。あの文書を鵜呑みにするには何か一貫性が無いように思う
 しかし、次の瞬間に僕は息を飲み心臓が止まりそうになった。
「ッ!?」
 暗闇に慣れぼんやりと見え始める目の前のスプリッタ、そこへ差し込まれていた電話線が突然抜け落ちたのである。すぐさま拾い上げて先端を確認してみると、モジュラージャックが原型を留めないほどに叩き潰されていた。これでは確かに差し込んでも少しの衝撃で抜け落ちるだろうし、幾らダイヤルしても繋がるはずが無い。
 少なくとも昨夜は繋がっていた。自分自身が電話をかけたのだから間違いない。だから壊されたのはそれから後という事になる。つまり、明菜さんは僕を攻撃対象としているのだ。
「やばい……ッ!」
 全身に鳥肌が立つような思いだった。呼吸しようとして息を吸い込むのに失敗し咽てしまったのは、生まれて初めての事だと思う。僕の中で繋がって欲しくなかった最悪のケースを構成する糸と糸が繋がってしまった。それが信じられなくて、状況を理解するのに一度思考を落ち着けなければならなかった。
 電話線を潰したのは明菜さんで、それは外部への連絡手段を意図的に断つためだ。僕が家族と連絡を取れなくなれば、この家から離れる事が出来なくなるからである。その前提ならば、今日の裏山での事だって僕の足を使えなくするため意図的にやったとも考えられる。転びそうになった僕を支えるふりをして実は地面へ落ちて怪我をするよう引っ張ってバランスを崩したのだ。
 何故、明菜さんは僕に親切にしてくれるのか。それは、僕を縛り付けるための準備を整える間に僕へ不信感を与えないためだ。不信感を持たれると逃げ出される恐れもある。それに、弟の日記にあった事だ。明菜さんは人を騙すのがうまいと。
 心臓が俄かに高鳴る音が聞こえてくる。本当は心臓の音は骨を伝って自分だけに聞こえているのだけれど、まるでここで太鼓でも叩いて騒音を発しているような不安感を掻き立てられ、思わず心臓の辺りを鷲掴みにしてしまった。
 ひとまず、落ち着こう。まずは落ち着くことだ。
 今、一番避けなければいけない事は何か。それは、僕が明菜さんへ不信感を持っている事を明菜さん自身へ知られる事だ。警戒されてしまえば、逃げ出す事は相当に難しくなる。このまま騙されているふりをして、いきなり忽然と姿を消す、それが理想的だ。
 まずは抜け落ちた電話線をスプリッタへと戻す。なかなか先端が入らないのはモジュラージャックが潰されているせいかと思ったら、右手が酷く震えて目標が定まっていないだけだった。同じく震える包帯だらけの左手で右手を支えながら、なんとか電話線を元へ戻す。
 自分でも危ういと思うほど動揺している。このままでは冷静に立ち振る舞うどころか、自らボロを出してしまいかねない。普段通りの自分を装わなければ。
 普段からあまりはしゃがず冷静沈着に振舞うよう努めているためか、一度呼吸を止めて心の波を沈める努力をするとあっけなく気持ちは静まった。僕は自分の意外なメンタリティの強さに驚きつつも安堵する。これだけ感情をコントロール出来るのならば、この先もきっと無難に立ち回れるはず。そういう確信から来る安堵感だ。
 だが、その時だった。
「雄太君?」
 突然、背後から聞こえて来たその声。僕は思わず全身をびくっと痙攣させ、声にもならない悲鳴を上げ驚いた。
 それは明菜さんの声だった。
 俄かに全身が冷たく凍えていく。せっかく止まった震えも再び始まり、今度は幾ら止めようとしても止める事が出来なかった。体の震え以前に気持ちの動揺が凄まじいからである。先程、自分は精神力の強い人間だと思った自負は撤回せざるを得ない。たったこれだけの予想外の出来事で、こうも我を失ってしまうのだから。
「え、あ、その、明菜さん……?」
「他に誰もいないでしょう。こんな時間に何をしているの?」
 恐る恐る振り返った先、明菜さんの姿が薄闇の中にゆらりと浮かび上がっている。
 一体、いつの間にここへ来たのだろうか。まさか、僕が電話線の事に気づいたことに勘付いてはいないだろうか。このことを知られてしまったら、一巻の終わりである。猿芝居でもいい、なんとかとぼけて誤魔化し通すしかない。
「いや、その、喉が渇いたので水を飲んで、その……ほら、暗くて足元が見えないからここに足を引っ掛けちゃって。小指が、ガツンって」
「あら、大変。大丈夫? 血とか出てない?」
「いや、左足なんで大丈夫です。ちょっと痺れたような感じになってるだけですから。もう立てますよ」
「そう。でも、廊下も暗いから一緒に部屋へ戻りましょう。また怪我したら大変だもの」
 そう言って明菜さんがこちらへ歩み寄って来た。唐突な接近に思わず緊張したものの、明菜さんは普段の調子で体を密着させながら抱え上げるようにして僕を立ち上がらせてくれた。それから僕の手を取り廊下の方へわざわざ丁寧に案内する。正直、幾ら暗闇でもそうそう躓いて転ぶような事はないのだけれど、明菜さんはひたすら丁寧に細かく見てくれているような感じだった。
 こんなに優しい人が、何故あんなむごたらしい事をするのだろう?
 もしかしたら人を一人手にかけているかもしれない人の手に触れている事は実に奇妙な気分だった。明菜さんは幼いところもあるけれど、優しく気配りの出来る素晴らしい人だと思う。人の好き嫌いの激しい僕でも、これほど好感を持てる人は身の回りにいなかった。けれど、そんな完璧な人格が全て本当の顔を隠すための演技だなんて。信じる信じられない以前に、ただただ恐ろしくてたまらなかった。そういう事が出来る人間、そういう人間がいる事の存在が恐ろしい。ある意味究極の分別だ。その思考の具合を想像するだけでも身の毛が弥立つ。
 どうして明菜さんが僕を助けてくれたのか。それは多分、寂しかったのだと思う。もちろん好意的な意味じゃない。手持ち無沙汰になって、という意味だ。弟の代わりならば誰だって良いのだろう。丁度年の頃もそんなに離れていない。代役ならばこれほど適任は無い。
 早く逃げなければ。そうしなければ、今度は僕の番だ。
 僕は必死で明菜さんに自分の震えを悟られぬようにするだけで精一杯だった。