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 不安で眠れぬまま一晩を過ごしたのは生まれて初めての事だった。
 障子から徐々に差し込んでくる太陽の光。耳を澄ませば遠くからはスズメの鳴き声も聞こえてくる。奈落の出現以来、世界中の動物達が一斉に大移動を始めたとテレビで見た事があったが、スズメはまだ日本に住み着いているようである。もっとも、スズメの体力では海を渡るなんて事は出来ないからなのかもしれないが。
 布団の中で僕はそっと目を開き身を捩った。捻った右足はまだずきずきと鋭く痛み、少し熱っぽい。一晩経てばもっと楽になるだろうと思ったけれど、ほとんど快方には向かっていない。やはり眠るのと眠らないのとでは回復の度合いが違うのだろう。
 昨夜はずっと明菜さんの事を考えていた。それは具体的な保身についてである。明菜さんがどういった手段を取ってくると思われるのか、それに対して僕はどういう対策を取るべきか。現実味のあるものや半ば妄想に近いものまで、とにかくありとあらゆるケースを考えに考え尽くした。それほどまでに僕は明菜さんが恐ろしいのだ。純粋に腕力を考えても、明菜さんの方が背は高いかもしれないが、それでも男女の体力差というものは相当にある。まともに取っ組み合っても勝つ自信はある。しかし、問題は明菜さんの性質だ。明菜さんは人を人と思わない振る舞いが出来る人だ。それが出来ると出来ないでは特に土壇場での展開が大きく変わる。端的に言えば、僕は包丁で切り付けるなんて躊躇うけれど、明菜さんはそれ自体に何とも思わないという事だ。
 僕が置かれている状況は本当に絶体絶命である。今は日本中が混乱していて、警察も機能していないから犯罪もやりたい放題だ。たとえ明菜さんがここで僕を殺してもそれを咎める人はいない。そもそも、この周辺には他に人が誰もいないという確信があるなら配慮する必要すらないのだ。僕が逃げる足を失った以上、明菜さんには人当たりの良い親切な仮面を着け続ける理由は無い。ならば、僕はいつ明菜さんに襲われてもおかしくはない。
 ひとまず、勝負は今夜、明菜さんが寝静まってからだ。それまでは普段通り振舞いつつ、これ以上の怪我をさせられぬよう明菜さんの動向には最大限注意を払わなければいけない。ただ、最も恐ろしいのは明菜さんが好機と見て急に態度を急変させる事だ。この家の付近に住んでいる人間はいない。その状況が、明菜さんを恥も外聞も捨てるような凶行の後押しをしない事をだけを祈るばかりだ。
 しばらくして、廊下の奥からパタパタとスリッパの音が聞こえて来た。明菜さんはもう起きたようである。
 足音はいきなり部屋の前で止まった。思わず僕は目を閉じ、眠っている振りをする。すると、スーッと障子が静かに開かれる音が聞こえた。思わず僕は飛び跳ねそうなほど驚き拳を握った。昨夜読んだ弟の日記の一文を思い出し、更に緊張感を高める。
 まさか明菜さんは、僕に掃除機を落としに来たのではないだろうか? もしくは、寝込みを刃物で一思いに襲うつもりなのか?
 よほど目を開けて抵抗の姿勢を見せたかったが、それ以上に強い恐怖心が行動を許さず、僕はただ無抵抗に硬直し続けた。主人に怒られ首を掴まれた犬が従順なように、僕もまた余計な行動を取る事で無闇に明菜さんを刺激するようなこと無意識の内に避けたのだと思う。
 程無くして障子はそのまま静かに閉まると、スリッパの足音はパタパタと台所の方へ消えていった。それでも僕は緊張したまま油断なく周囲の気配に神経を尖らせ続ける。再びスズメの鳴き声が聞こえて来た頃、ようやく僕は全身を緩め安堵の溜息をついた。明菜さんはもうここにはいない、そう心底安堵する。
 何もされなかったという事は、どうやら明菜さんは僕の様子を見に来ただけのようである。やはり昨日の今日でいきなり襲うような事はしないのだろう。御馳走を作る時は前もって下拵えをしておくように、じっくりと時間をかけて調理するつもりなのか。一体どんな目に遭わされるのか知れたものじゃないが、それはそれで時間を確保出来るのだから良い事ではある。
 起きるにはまだ早い時間であるため、僕はもうしばらく布団の中でごろごろしている事にした。こういう機会でもなければ早起きする事なんて一生ないから、たまには起きてみるのもいいかもしれない。そうは思ったけれど、こういう機会は元より足の痛みに気力を削がれて気乗りしなかった。それに、普段と違う行動を取ったせいで明菜さんに勘繰られるかもしれない。大人しくしている方が利口だ。そう判断を下した僕は布団に留まり続けていたのだが、昨夜は一睡も出来なかったせいか気が付くと睡魔が訪れうとうとと意識を失い始めた。多少取り留めない夢を何度か見たものの、警戒心のためか意識を完全に失ってしまう事は無かった。断続的に訪れる短い睡眠は拷問に近い。まどろみに委ねる事は実に気持ちが良いのだけれど、覚めた時はあまりに感覚が鮮明で苦痛とすら思うからだ。正直なところ、ずっとこのまどろみの中で生きていたいと思っている。ここには僕を悩ませる不安や恐怖も無く、奈落もなければ暴徒もいない平和な世界だからだ。けれど、どうにも僕は現実逃避のような行動へ忌避感があるせいか、そこへ踏み切るほど恥は捨てられなかった。だからつくづく思うのが、こういう苦境であっても堂々と立ち向かい自分出来る事をやり尽くすべきなんだなと、そういう事だ。
 やがて、台所の方からパタパタとスリッパの音が聞こえて来た。明菜さんが来る。どくんっ、と痛いほど高鳴った心臓を押さえ、僕は眠った振りをしたままじっと気構えを整える。
「雄太君、朝よ。御飯出来たから早くいらっしゃい」
「はい、今行きます」
 障子の向こう側から呼びかける明菜さん。それに対し僕はすぐさま普段通りの返事を返した。しかし明菜さんが台所へ戻った後で、起き抜けに普段通りの返事をすかさず返すのは不自然じゃなかっただろうか、と不安に思った。もし明菜さんが注意深い人間であれば、僕が何かしら警戒しているだろうと勘付いたかもしれない。
 布団から抜け出し、服を着替えてから布団を畳む。立ち上がってみると、昨夜よりはマシな程度に足は回復していた。歩くとまだ酷い痛みが迸るものの、まるで動けないというほどでもない。この程度ならば、覚悟を決めれば少しくらいは全力疾走も出来そうだ。
 部屋を出て洗面所で顔を洗い茶の間へと向かう。明菜さんは既に朝食の準備を終え、自分の席で座って待っていた。卓袱台の上には御飯と味噌汁、魚とおひたしに漬物といったラインナップ。魚は白身魚の西京焼きのようで甘い香りが漂っている。
「おはよう。足は大丈夫?」
「おはようございます。まだちょっと歩くのは辛いです。ここまで来るのに精一杯で」
「そう。あまり無理ちゃ駄目よ。怪我が悪くなるから」
「分かってますよ」
 明菜さんの余計なお節介に普段なら軽口の一つも叩くのだけれど、僕はそう口を尖らせただけで二の句を次げなかった。普段ならもっと余計な事を言ってやるのに言えなかったのは、無闇に明菜さんを警戒してしまっているせいだ。警戒している様を見せてはならないというのに、余計に警戒している様を見せてしまっている。しかし明菜さんは、気付いているのかいないのか分からないが、普段通りの明るい笑顔で僕に着席を促した。ひとまず、ここまではいつもの明菜さんである。ただし、明菜さんが常にこちらの隙を狙って動向を観察しているかもしれない事だけは念頭から外す事は出来ない。
 朝食を終え、僕は足が痛い事を理由に二つ折りにした座布団を枕に寝転んだ。警戒していない素振りを見せているつもりだが、これでは少し露骨過ぎるのではないかとも思った。不安が過ぎて、何から何までが疑わしく思えてしまう。そんな疑心暗鬼な姿こそ一番見せてはいけないのだけれど、そこまで感情をコントロールする事はとても出来なかった。
 頭の中を幾つもの不安が過ぎる。中でも一番不安なのは、僕が無事家族と合流出来るかどうかだ。明菜さんから無事に逃げ果せたとしても、大宮まで怪我をした足で辿り着けるかどうかが問題だ。普通に歩いても一日か二日はかかると思う。怪我をしているから体力の消耗も激しくペースも上げられないので、実際はもっとかかるだろう。僕を待ってくれるリミットが一週間だから日数的にも非常に際どい。もはや一分の失敗も許さないぐらい、慎重に立ち回っていかなければいけない必要がある。
 やがて台所の方から洗い物の音が途切れると、明菜さんがエプロンで手を拭きながら茶の間に戻ってきた。僕は寝転んだまま不貞腐れている様子を見せつつ、腹の内では慎重に出方を監視する。
「そんなにうじうじしないの。過ぎた事を悔やんだってしょうがないんだから。ほら、外はいいお天気よ。昨日の所でお茶にしない? 日光は骨にもいいのよ」
「いや、いいです。なんか動きたくないんで」
「もう、若者らしくないんだから」
 明菜さんは少し怒った振りをして見せ、洗面所の方へと向かった。多分、これから洗濯をするのだろう。
 何となく今のは咄嗟で断ったが、よく考えてみればそれで正解だったと思う。外に出ればその分周囲へ警戒しなければいけないため、明菜さんだけに気が回らなくなる。そんな所を不意に襲われでもしたらひとたまりも無い。もし万全を期すつもりであれば、左足を狙ってくるだろう。そうなったら完全に自力で歩けなくなり、全てが絶望的になってしまう。
 夜になるまでが勝負だ。それまでは余計な事をせず、漬け込ませる隙も与えず、体力を温存し足を少しでも回復させる。
 明菜さんが寝静まるまで。それまでは一秒たりとも気は抜けない。