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「ハッ!?」
 ふとした瞬間、僕は全身をしならせるようにして飛び起きた。反射的に周囲を見回して自分の置かれた状況を確認する。しかしそこは、今朝方朝食を取った茶の間のままで、これといって変わった所は見受けられなかった。次に自分の状態を確認する。いささか服はくたびれているような感じはするものの、それ以上の見て分かるような変化は無い。足首も相変わらず痛みが走る状態そのままだ。
 何も変わりない事を確認し、僕はほっと安堵の溜息をついた。いつの間にか眠ってしまっていたようである。一瞬、朝食に睡眠薬でも盛られたかと思ったが、眠ってしまったのは昨夜一睡も出来なかったせいだろう。ふとした気の緩みで眠ってしまったのだ。
 柱時計を見ると、時刻は午前十時に差し掛かっていた。朝食を食べ終えてから二時間ほど経過している。十分な睡眠とは呼べないが、頭の中はすっきりとして思考も良く巡り気分も落ち着いている。考えてみれば、今夜にでもここから逃げ出すのだから日中は睡眠を良く取っておいた方がいいのかもしれない。ただ、睡眠中は無防備な姿を晒す訳だから、あまり集中して長く眠るのは危険である。短い時間で細かくとっておくべきかもしれない。
 茶の間に明菜さんの姿はなかった。耳を澄まして居場所を探れるかやってみたものの、別段変わった物音が聞こえる訳でもなく、ただ耳鳴りに似た風の音が僅かに聞こえるだけだった。
 別段早急に居場所を特定する理由もない僕は、ひとまず今夜逃げ出すに際して今後必要になりそうなものはないかと周囲を見回してみた。すると、台所への入り口のすぐ脇にある茶箪笥の上に、備え付けらしい木製の救急箱を見つける事が出来た。早速立ち上がってそれを卓袱台の上に移し、蓋を開けて中を見てみる。そこには様々な薬やら器具が収まっていたが、消毒薬や絆創膏に熱冷ましといった応急処置程度のものばかりだった。あって困るものでもないが、緊急に必要となるようなものでもない。
「あ、バファリンだ。これって捻挫の痛み止めになるのか? 一応持って行こうか」
 痛み止めはあると便利だが、こういうのは神経に作用するから眠気を催すとも聞いたことがある。ひとまず持つだけ持っておき、どうしようもない時の最終手段として使うのが良いだろう。それに、痛み止めを持っているといないとでは気持ちにも随分違いが出てくる。お守り代わりのようなものだ。
 更に救急箱を漁っていると、やや赤味がかった肌色をしたテープが出てきた。スポーツ用のテーピングである。普通こんなものは救急箱に無いのだけれど、きっと弟あたりがサッカーでもやっていたのだろう。もしくは明菜さんが昔なにかスポーツをしていたかだ。
 テーピングは捻挫にはかなり有効である。足首をがちがちに固めておけば、長い間歩くのも随分楽になるはずだ。ただ、今から使うのは少々目立ってしまい問題だから、今夜寝る前ぐらいにこっそりとやる事にしよう。
 鎮痛剤とテーピングを取り出し救急箱の蓋を戻しかける。ふとその時、持ち上げた蓋の裏側に未開封の湿布薬が挟まっているのを見つけた。そういえば明菜さんは、僕が捻挫しても包帯で固定したり氷嚢を用意してはくれたけど、湿布は出してくれなかった。ただ冷やすよりも湿布を使った方が絶対に治りは早い。それをしてくれなかったのは、わざと治りを遅くするためだろう。やっぱり、明菜さんは僕の足を潰しておこうとしているようだ。
 手に入れた鎮痛剤とテーピングを持って部屋へと向かう。さすがにこんなものを持ち歩いておく訳にはいかないし、万が一落としたりして見つかってしまったら申し開きも出来ないからだ。早いところ隠してしまおうと、周囲の気配に注意しながら部屋に入り自分のカバンを探す。
「あれ……?」
 僕は使い慣れた自分のカバンを抱え上げ、持ってきた鎮痛剤とテーピングを一番奥へと押し込む。だが僕は、カバンを閉めるその手をおもむろに休めた。
 カバン自体はすぐに見つける事が出来た。しかし、どうも違和感を感じて仕方なかった。僕は昨夜、寝る前にカバンは枕元へ置いたいたはずだが、カバンの姿は机の上にあったからである。何かの記憶違いかとも思うが、こういう逆の既視感は住み慣れているからわざわざ記憶に留めないような場所で起こる事である。
 ただの記憶違いならば良い。けれど、勘違いでは済まされないような取り返しのつかない事態もある。不安に思った僕はカバンの中へもう一度手を突っ込んでPDAを取り出した。すぐさま電源ボタンを押し起動を試みる。しかし、普段なら一瞬でスタンバイ画面に移行するはずなのだが、幾ら待っても画面が立ち上がって来なかった。俄かに焦りを覚えた僕は電源ボタンを何度か連続で押してみたものの、それでも一向に画面は消えたまま変わらなかった。
 まさか、さっき眠っている間に明菜さんが……?
 可能性は無いとは言い切れない。僕が外部と唯一通信出来る手段はこれだけなのだ。それを封じてしまえば、完全にこの家の中で僕を孤立させる事が出来る。
 機械オンチの明菜さんだから、ロムを消去するとかソフト的に壊すなんて芸当は絶対に不可能だ。となると物理的に壊したという事になるが、本体には目立った外傷は見受けられない。そうなると他に考えられるのは、水没させるかショートさせるかだ。機械オンチに過電流を流すなんて芸当が出来るとは思えないが、電源を入れた状態で水の中へ入れれば一発で故障する。後はしっかりと乾かせば、見た目にはどこも異常はないように見えるだろう。
 明菜さんは本格的に僕を追い詰めようとしているな……。
 僕は震え始めた手を押さえ、動かなくなったPDAをカバンの中へと戻した。PDAが使えないという事は、単純に家族と連絡を取れなくなるだけでなく必要な情報の収集も出来なくなるという事になる。これははっきり言って致命的だ。必要な情報はウェブ上から拾うのが基本の僕に、一切の情報ツールが失われるという事態は昆虫が触角をもがれるのとほぼ同じである。
 もう少し状況を整理しておこう。少なくとも明菜さんは僕に無断でカバンを開けるような事をする。今日、もう一度カバンの中を調べられない保障はないから、ここへ鎮痛剤とテーピングを入れておくのは危険だ。ノートパソコンの入っている引き出し辺りへ隠すのが良いだろう。
 カバンの中へ入れたばかりのそれらを引き出しへ移しながら、僕は自分が昨日想定していたよりもより危険な状況へ早くも立たされている事の実感を噛み締めた。明菜さんの行動が少しずつ過激になっていく。はっきり言ってPDAを壊すなんて、僕が少し触ればすぐにでも発覚するような大事だ。それを平然と行ってきたという事はつまり、明菜さんがいよいよ本性を現しつつあるのだ。
 何としてでも今夜中にここから逃げ果せなければ。明菜さんは予想よりも早く行動を始めつつある。明日にはもう、きっと僕自身へ標的が移るに違いない。