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 夕食後、僕は何をする訳でもなく茶の間でボーっと天井を見つめていた。
 時間があればよくネットをしていたものだけれど、ここ数日はほとんど出来ていない。初めはそんな生活スタイルに違和感こそあったものの、今ではあろうがなかろうがどうでも良くなって来た。インターネットなんて酒やタバコと同じようなものだ。あると楽しめるが、無くとも生きていくことに支障は無い。
 台所からは明菜さんが洗い物をする音が聞こえて来る。今日の夕食もいつもと同じで美味しかった。腹が空いていた事もあるけれど、毒が盛られているとか疑いながら食べるのが馬鹿らしくなるほど美味しいと思ってしまったのだ。我ながら情けないとは思ったが、もしも毒を盛るつもりならとっくにやられているのだから、あまり考え込まなくてもいい事だ。
 頭の中で今夜の計画を密かに練る。全体的にはそれほど多くをする必要は無く、ただ幾つかの要所させ押さえておけば特に問題は無いと思う。ただ気がかりなのは足の怪我の具合だ。今の所はテーピングで固めておけば強行は出来そうだ、という程度のものだ。ただ、そのせいで明菜さんが目を覚ましてしまうような物音を立ててしまわないかが重要である。眠っている人間は滅多な物音では目を覚まさないものだが、眠りが浅かったり神経が過敏になっていると少しの違和感にも目を覚ます。明菜さんの眠りはどういうものか確認が必要だとは思うが、そんな露骨な質問をする訳にもいかない。だから明菜さんが目を覚まさない事を祈りつつ、慎重に行動する他無い。
 家を出ても気は抜けない。家の周りに罠がしかけられている事も考えなければいけないから、慎重に進んでいく必要がある。そして最後に、自分の向かう先の確認だ。本当はPDAで位置を確認しておきたいのだが、明菜さんに壊されてしまった以上はそれもままならない。まずは国道へ出て、バスの向かっていた方向とか標識の地図を頼りにして向かうしかないだろう。
 やがて洗い物の音が止み、今度は冷蔵庫を開ける音や食器を擦る音が聞こえて来た。また何か食べるつもりなのだろうか、と僕は眉を潜める。
「食べてすぐ寝転がるのは行儀が悪いですよ」
「消化器官に負担をかけないための姿勢です。健康のためですよ」
 茶の間に戻ってきた明菜さんは、おぼんと赤黒いビンをそれぞれ持っていた。おぼんにはワイングラスが二つと、チーズやクラッカー、小さくカットした野菜や果物が並んでいる。
「ねえ、ワイン飲まない? 安物だけど、これ結構おいしいのよ」
 そう言うなり明菜さんは、左手でビンを掴み右手でコルク抜きを回し始めた。しかしビンの重心が安定せずうまく入っていかないようである。見るからにぎこちない仕草だ。いかにもこういう事に慣れていないのが見え透いている。
「僕、未成年なんですけどね。ほら、貸して下さい」
 明菜さんからワインボトルを受け取り、本体を太股で挟み左手で口を押さえる。そしてコルク抜きをゆっくりと回しながらコルクへ差し込んでいく。左手は包丁で切った怪我がまだ完治していないからあまり強く握る事が出来ないものの、安定させるためには添える程度で構わない。後はコルク抜きを真っ直ぐ差せるかが重要だ。
 小気味良い音を立てて抜けるコルク。するとビンからはぶどうの酸っぱそうな匂いが立ち込めてきた。このワイン独特の香気をまず最初に楽しむものらしいが、僕にはいまいち理解出来ない感覚である。
 僕は早速明菜さんのグラスへワインを注いだ。すると空かさず僕の前にもグラスを述べられ返杯とばかりにワインを注いでくる。僕は慌てて断ろうとするものの、いいからいいからと明菜さんはしきりに勧めて来て遂には断る事が出来なかった。二人で乾杯の後、明菜さんはすぐにグラスへ口をつけてこくこくと飲む。僕も仕方なしに一口つけてみたものの、どうにもアルコールの味に舌が引きつってしまい、すぐにやめてしまった。薬どうこう以前に、お酒なんて飲んだせいで寝過ごしてしまったら本当に危険である。僕は代わりに皿の上に盛られているチーズを摘まんだ。
「明菜さんって幾つなんですか? 前にあんまり歳は離れてないとか言ってましたよね」
「永遠の十六歳ってどう?」
「じゃあ未成年ですねっと。はい、空きましたよ。でも未成年の飲酒は感心できませんね」
「少しぐらいは乗って欲しいんだけどな……。君はどういう時に笑うのかしら?」
「あー、笑いのツボですか? 頭の悪い大人を見た時かな」
「君のそういう皮肉っぽい所は本当に良くないわ」
 そう言って明菜さんは更にワインを飲み、僕にももっと飲むよう勧めてくる。いや、勧めるというよりも絡んで来る感じだ。何となく断り辛い雰囲気ではあったが飲んで酔っ払うわけにもいかず、一口二口と舐める程度にして誤魔化した。どうして急にお酒なんて勧めてきたのだろうか、明菜さんが僕の心境の変化に多かれ少なかれ勘付いているとしか思えない。もしかすると、もう今夜にでも攻勢をかけるつもりなのだろうか? そうだとすると非常に危険な状況である。
「明菜さんは大学で何を専攻してるんですか?」
「文学部よ。小説を書くサークルに入ってたんだけど、あまり顔は出さなかったなあ。バイトが落ち着いたと思ったら、すぐに論文の期日が迫ってきていたりして、なんかバタバタしててさ」
「大学の楽しみの半分を捨てちゃったようなものですね。普段はどういうところで遊ぶんです? 明菜さんは所帯染みてるから、なんとなく想像が出来ないんですよね」
「うーん、確かに大学とバイトの繰り返しで、あんまり遊ばなかったからなあ。バイトが忙しかった記憶しかないみたい。雄太君はどう? 学校は楽しい?」
「まあまあでした。あまり人と変わってはいないと思いますよ。丁度今ぐらいの時期からは、高校受験がああだこうだと教師に尻を叩かれる感じで」
「雄太君の友達ってさ、きっと雄太君に似たような人達ばっかりでしょう? こう、理屈っぽい可愛くない感じの」
「そんな事ないと思いますよ。ただ、いつも衝突するのは想像と願望でしか会話の出来ない人ばかりでしたけど」
「おー、またお姉さんの批判ね。よし、いいわよ。今夜はとことん話し合おうじゃない」
 明菜さんは二杯目のワインを飲み干し、一息つきながらクラッカーをかじった。大分酔いも回ってきたようで頬に赤味が差している。普段の明菜さんは割と忙しなく動き回っているイメージがあるのだけど、今の明菜さんは気だるい仕草で足を崩し頬杖をついた正反対の雰囲気だ。随分無防備な姿だと僕は思った。それだけ油断しているという事なんだろう。このまま酔って眠ってくれれば、きっと朝まで目は覚めないに違いない。どこかスサノオとヤマタノオロチの話を連想させられる光景だ。
「まあ、穏やかにいきましょう。ソースが幾つも必要になるような堅苦しい議論は、片手間にするものじゃありませんよ。はい」
 僕は空になったグラスへワインを注ぎ足してやった。もう十分酔っているだろうが、まだまだ完全に酔い潰れるまで飲ませておいた方がより確実である。ある程度弾みをつけておけば自壊しそうだから、そこに至らせるまでうまく誘導しておこう。
「あら、ありがとう」
「どういたしまして。でも、飲み過ぎには気をつけて下さいね」
「大丈夫よ。私は節度ある大人ですもの」
「その割に、未成年にお酒を勧める暴挙に出ましたね」
「いいのいいの。こういうのは社会勉強なんだし」
 そういうものかな、と首を傾げつつ微苦笑。そしてクラッカーを摘んでかじる。
 ふと僕は、明菜さんとこうして話しているのが楽しいと思ってしまった。こういう談笑をしたのはまだ正常に学校へ通えていた頃以来である。確かに明菜さんとは歳も性別も違うから会話の弾む共通の話題はほとんど無い。だけど、一緒の時間を共有出来ている事そのものが楽しいのだと僕は思う。もちろん、そう思う傍らで明菜さんを警戒している僕もいるのだけれど。
 先程よりも早いペースでグラスを空けた明菜さんに、僕は更にワインを注いだ。明菜さんは目に見えて頬を紅潮させじっとりと汗を浮かべている。酔うという概念がよく分からない僕でさえ、この人は酔っているのだと思わせられるほどだ。好い感触である。明菜さんが酔い潰れるのもきっと時間の問題に違いない。
 ふと、
「もしかして雄太君、私の事を酔わせようとしてるのかしら?」
 明菜さんが僕にそんな言葉を投げかけてきた。突然腹の内を言い当てられてしまった僕は驚きに心臓を高鳴らせ、ワインを注ぐ手が一瞬止まった。
「そ、そんな事無いですよ。変な事言わないで下さい」
 思わぬ指摘に喉を詰まらせるものの、明菜さんは頬杖をつきながら僕をにやにやと酔った笑みで見ているだけだった。よくある、女性をお酒で酔わしてどうこうというジョークの意味で言ったのだろう。むしろ僕の方が更に曲解してしまっていたようである。
 大丈夫だよな……?
 安堵の溜息をつきそうになりながらもワインを少し多めに注ぎ、そして一言、普段の自分の調子を意識して答える。
「酔ったら少しは静かになるのか試しているだけです」