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 その感覚は丁度、子供の頃に親の目を盗んで悪戯をする時にそっくりだった。けれど、こればかりは悪戯では済まされない。見つかった時のペナルティは拳骨でも説教でもない、文字通りの刃物が飛んでくるかもしれないからだ。
 闇夜の中、僕は静かに目を開き上体を起こす。周囲の気配に耳を澄ますと、耳鳴りのするような静寂だけが聞こえて来た。車の走る音や虫の鳴き声、ましてや人の気配など一つとして感じられない。いつも疎ましく思っていた都会の喧騒が懐かしくさえなってくる。
 視界の利かない暗闇の中、手探りで見つけ出した携帯で確認した時刻は午前一時。明菜さんに無理に勧められたワインの余波が僅かにこびり付いているものの、思考はいたってクリア。むしろ体温が少し上がって体がほぐれているぐらいだ。これから長い運動に入るのだから丁度良い。明菜さんはボトルを半分ほど空け、三時間ほど前に自室へ戻った。少し足元がふらついていたから相当酔っているだろう。今頃ぐっすり眠っているに違いない。これは予想外の収穫である。明菜さんが眠りの浅いタイプだと非常に危険だったのだが、もはやどちらのタイプであろうと関係はなくなったからだ。
 よし、始めよう。
 僕は引き出しに隠しておいたテーピングを取り出し、それを足に巻いて足首を固定していった。まずは足の準備だが、ある程度この暗闇に目を慣らさなければ動きにくいという事もある。幾ら暗いからと言って明かりをつける訳にはいかない。
 テーピングは予想していたよりも難しい作業だった。初め、がちがちに固めておけば大丈夫だろうと思っていたのだけれど、完全に固定すると足首に衝撃が直接かかって余計に歩き辛い事が分かった。固定する事は大切だが、遊びも残しておかなければ窮屈なだけで逆効果だ。
 そういえば小学生の頃、授業で野球をしていて今と同じように足を痛めた事があった。その時、父親がテーピングの巻き方について色々と口を挟んできた。やたら左螺旋に拘っていたが、それは多分大昔に流行したスパイラルテープと混同しているのだと思う。左巻きに巻けば痛みが和らぐらしいけれど、水晶並に胡散臭い理屈だ。父親なりに気遣っていたんだろうけど。
 テーピングも終わり、少ない荷物をまとめ服をそそくさと着替える。準備は万全だ。状況も予想以上に好条件が整っている。足の痛みもワインなんて口にしたせいか、幾らか鈍っている。テーピングもしたし、しばらくは持つだろう。
 準備を整えた僕は、障子に手をかけそっと力を込める。前から思っていたのだが、ここの障子は蝋でも塗っているのか開閉する時はまるで引っかかる事が無い。忍者は敵の城へ潜入した際、音を立てずに障子を開閉するため水をかけるそうだが、そこまでする必要はなさそうである。
 部屋を出ると今度は廊下だ。この家の廊下は踏み込む度にぎしぎしと軋む音がする。ただでさえ静かな時間帯なのだから、その程度の音でも不安になるほどやたら響く。明菜さんはこのぐらいの音で目を覚ませる状態ではないと思うけれど、一応は慎重になっておくに越した事は無い。そうでもしなければ気持ちが落ち着かない。
 ゆっくりと慎重に、玄関へ向かって廊下を歩く。玄関は茶の間を通り過ぎてからすぐの所にあるのだけれど、こんなにも遠くに感じるとは思ってもみなかった。心臓がやたら高鳴って仕方ない。もはや痛みすら伴い指先が痺れている。血液が末端まで届いていないのだろう。その血液は一体何処に使われているのだろうか? 大方、自前の不安を自前の理性で制するためだろうか。
 緊張のあまり呼吸も苦しくなった。口元を覆わなければ床の軋む音よりも大きな呼気の音が周囲に響く。それを押さえるため、出来るだけ大きく口を開いて息を吐こうとする。しかしそれでは喉が鳴り、余計な音を止める事は出来ない。
 茶の間へと差し掛かる。暗闇の中、薄っすらと茶の間の中心にある卓袱台が見えた。卓袱台の上には明菜さんが飲み食いした晩酌の跡がそのまま残っている。ふと、明菜さんと交わした楽しい談笑が頭を過ぎったが、すぐさまそれを振り払った。自らの弟を虐待した上で死に至らしめた明菜さんの本性は、そんなものでは到底相殺出来やしないのだ。
 何十歩にも思える歩を進め、やがて僕は玄関へ辿り着いた。安堵のため息をつきそうにすらなったが、安心するにはまだ早い。少なくともこの家を出てから見えなくなるまで離れなければ。
 玄関の踏み台へゆっくりと足を降ろす。暗闇に目が慣れて来たとは言っても、玄関は周囲より一段低い作りになっているから、うっかり踏み外して転んでしまうことがないようにしなければならない。
 自分の靴を求め周囲を見回す。僕の靴は下駄箱のやや入り口近くに揃えてあった。よりによって一番遠い所である。それでも僕は気を抜かず、慎重に身を屈めながら靴へ手を伸ばした。
 心臓は未だ痛いほど強く高鳴っている。指先も悴んだように痺れたままだ。しかし外が間近にあるせいか息苦しさも苦と感じなかった。もうすぐ外へ出られると思うと、些細な生理はどうでも良くなるのだ。
 腕を力いっぱい伸ばし、靴の踵へ指を迫らせる。あと一センチ、その距離がとても長く煩わしかった。既に僕の期待は体を飛び出し、家の外で僕を急かしているようにすら思う。そして僕も早くそこへ追いつく事を願った。
 しかし、その時だった。
「……ッ!」
 僕の心拍音だけがけたたましく鳴り響く中、ふと僕の背後からみしりと廊下の床板が軋む音が聞こえて来た。今、自分の両足は廊下を離れ玄関の踏み板の上にある。だから、どうしてもその音を鳴らす事は出来ないのだ。
 ただの家鳴りだろう。そんなに慌てるような事じゃない。
 必死で自分にそう言い聞かせるものの、その直後にまた床板の軋む音ははっきりと聞こえた。
 一体何だろうか。
 僕はそれ以上の推察は恐ろしくて出来なかった。他に考えつく理由などありもせず、楽観的な空想で紛らわせた所でどうにかなる状況ではないからである。
 意を決し、しかしゆっくりと後退さって距離を取りながら後ろを振り向く。その先では、暗闇の中にパジャマ姿で立つ明菜さんがじっとこちらを見つめていた。