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「え……あ……その」
 言葉にもならない声を漏らしながら、僕はしきりに冷静であろうと自分へ言い聞かせた。頭の中は決して真っ白になっている訳ではなかった。だが、驚きよりも以前に思考が恐怖へ囚われてしまっていた。その恐怖が、どのような選択肢を考え付こうとも全て抑圧してしまうのである。
「こんな時間に何をしているの?」
 明菜さんは一歩前へ歩を進め、そう訊ねてきた。咄嗟に幾つも言い訳の言葉は浮かんだ。だがそれは声にもならず、あっという間にどこかへ無くしてしまう。
 何も答えない僕へ明菜さんは更に歩を進める。その足取りは徐々に短く速くなっていき、まるで競争車のような加速を始める。俄かに勢いづく明菜さんに対し、僕は微動だに出来なかった。
「何をするつもりだったの? 雄太君」
 やがて、すぐ目の前まで迫ってきた明菜さんは僅かに語彙を荒げ再度訊ねてきた。僕を見下ろす明菜さんの目は月明かりによってぎらぎらと白い光を放っているように見えた。それを目の当たりにしてしまった僕は一層言葉を放てなくなり、その場で硬直し続けた。
 これはまずいぞ……。
 恐る恐る明菜さんの状況を確かめる。幸いにも両手には何も武器になりそうなものは持ってはいない。服装もパジャマだから、服の中に武器になるようなものを隠すのは難しいと思う。だけど、明菜さんはいきなり致命傷を負わせるのではなく、徐々に痛めつけるような陰湿なやり方をしていたと日記にはあった。爪切りや栓抜きでも怪我をさせるには十分だ。CIAは時にエンピツで人を殺していたという。たとえどんな些細な小物でも、それを悪意を持って使われれば恐ろしい武器になる。そういう意味では、ここはまさに明菜さんにとってホームグラウンドだ。
 靴は諦め、足の痛みを無視して無理やりにでも外へ飛び出そうか? いや、玄関には鍵がかかっている。鍵を開けている間にあっさりと捕まってしまうのがオチだ。かと言って、目の前の明菜さんを押し退けて窓から強行突破するのも非現実的だ。体調が万全なら負けない自信はあるのだが。
 どうやってこの状況を乗り切ろうか。僕は必死に冷静さをかき集め思考を巡らせる。しかし、
「こっちに来なさいっ!」
 突然、明菜さんが腕を伸ばして僕の襟元を掴んで来た。すぐさま引っ張られたかと思ったらあまりに予想外の力に踏ん張る暇も無く僕は前へつんのめり、そのまま体を引き摺られて茶の間まで連れて行かれた。
 やばい、このままじゃ本当に殺される!
 明菜さんの予想外の腕力に驚いた事もそうだが、これほど露骨な本性を剥き出しにしてくるのは僕にとっては最悪の状況だ。逃亡を明菜さんに見つかる危険性を、僕はあまりに軽く見積もっていた。こんな様子の明菜さんでは物事の分別などあろうはずもない。僕が晒されているのはそういう危険さだ。
「は、離して下さい!」
「何を言ってるの! 絶対に離さないわ!」
「いいから離せ! 僕は出て行くんだ!」
「あなたは、絶対に、この家から出さないからね!」
 声を荒げる事は滅多にしない僕だが、それでも明菜さんの迫力にはとても敵わなかった。たった一言一睨みで、僕は全身の自由だけでなく思考能力までも奪われるような錯覚、恐怖に陥った。普段はあんなに穏やかな明菜さんがまるで別人のようである。本気で殺気だった人と相対したのは生まれて初めてだったが、それよりもむしろ普段とのギャップに萎縮していた。けれど、この状況が危険だと考えるだけの冷静さもまだ残っている。もう恥も外聞も無い。黙っていた所で殺されるだけならば、どんなにみじめだろうと精一杯抵抗して僅かでも可能性を開くべきだ。
 僕は襟元を握る明菜さんの腕を掴み引き剥がそうと試みる。しかし体勢が悪くて力が入らないだけでなく単純な腕力の差もあって、断念せざるを得なかった。今度は前に本で読んだ技で、親指と人差し指の間を力いっぱい押してみた。すると意外な反撃に驚いたのか、明菜さんの手が一瞬緩んだ。その隙を逃さず無理やり引き剥がすが、間髪入れず明菜さんの手が再び伸びて僕を掴み直すと、そのまま茶の間の奥へ引き倒された。僕は頭から突っ込むように畳の上を転げる。
 くそっ、滅茶苦茶だ!
 固定した足を僅かに捻ってしまったせいでじんわりと痛みが滲み出る。しかし具合を確認する暇は無く、すぐさま僕は跳ね起きて体勢を整えた。
 僕の目の前に立ちはだかる明菜さんは、棚から持ってきたガムテープを伸ばして構えている。何をするつもりなのかと息を飲む暇も無く、僕は上から押さえつけられたままガムテープを体に巻きつけられた。ガムテープなんかで拘束出来るのかと思ったが、意外にも普通に縛られているのと同じぐらいに身動きが取れなかった。
「やめて下さい! 何を考えてるんですか!?」
「雄太君こそ何を考えてるの!? そういう勝手な真似は絶対に許さない!」
 手足をたっぷりとガムテープに縛られ、またしても畳みの上へと転がされる。手足の自由が利かなくてはもはや逃げる事も出来ない。みすみす縛らせてしまった事は失敗だったが、それ以上に問題なのはこれから明菜さんが僕に対してどういう振る舞いをするかだ。
 逃げるどころか立ち上がることも出来ない。こうなったら、いっそ逆に反撃を試みるしかない。一矢報いて、という後ろ向きの考えじゃない。明菜さんを怯ませるなりして、まずはこの一方的なイニシアチブを何とか挽回しなければどうしようもないという事だ。
「いい? 今夜はこのままここで頭を冷やしなさい。馬鹿な事を考えるものじゃないわ」
 ふと、畳の上に転がる僕の顔を明菜さんが無防備に覗き込んできた。
 チャンスだ。
「嫌だ!」
 僕は上半身の力を振り絞ると、思い切り反動をつけ自分の額を叩き付けた。