BACK

 一瞬、目の前に火花が散った。
 鼻面を狙ったはずの頭突きは、よりによって明菜さんの額へ命中した。人間の体で最も堅い部分同士がぶつかったのだ、当然の事だが痛みに悶え苦しむのは双方だ。
「痛ッ!」
 思わず涙が浮かんでくるほどぶつけた額が痛い。しかし、明菜さんは今の反撃によって確かに怯んだ。そこから劇的な展開に持ち込める訳ではないと分かっていたけれど、この状況を僕はチャンスと思って次の行動に移った。
 身を捩り明菜さんを振り払うと、僕は畳の上を這いながら廊下へと向かった。芋虫のような仕草で逃げ切れるとは思っていなかったが、とにかく僕は明菜さんから逃げる事に必死だった。ただ黙って殺されるほど恐怖に屈してはいないのだ。
「待ちなさい!」
 すぐさま背後から明菜さんの殺気だった制止の声が放たれる。ようやく畳と板の境目に辿り着いた僕だったが、あっという間に明菜さんに追いつかれてしまった。背後から襟を掴まれ茶の間の奥へと引き摺り戻される。そして今度は明菜さんに馬乗りになられた。明菜さんと僕とではほとんど体重差は無いと思っていたが、それでも馬乗りになられるとほとんど身動きが取れなくなってしまう事実に愕然とした。テレビで時々やってる格闘技番組のプライドで馬乗りになって相手を一方的に殴るシーンを見かけるが、まさかこんなにも不利な状況だとは思いもしなかった。
「逃がさないって言ったでしょう? もう諦めなさい」
 怒りの雰囲気を滲ませながら険しい表情で見下ろす明菜さん。暗闇の中であるはずなのに、やけに目だけがぎらついて見えるような気がした。この強い気迫のせいでそう錯覚してしまっているだけだとは思う。けれど、身動き一つ取れない僕はただただ戦慄するしか無かった。
 じりじりと僕を侵食していく真っ黒の恐怖。俄かに体中から力が抜けて、奴隷のように従順になり全てを享受しようという衝動が起こり始める。本当にあと一歩で僕は明菜さんへ完全に屈してしまいそうだった。何とかぎりぎりの所で持ち堪えれているのは、多分ここから無事に逃げ出して家族の元へ戻りたいという気持ちだと思う。それが無ければ、とうに心はこの異常な状況に折れてしまっている。
「そろそろ落ち着いた? どうしてこんな事したの? こんな事したって、どうしようもないでしょう」
 一変して言葉を和らげ普段の口調に戻った明菜さんが、優しく僕に問い訊ねてきた。それはむしろ僕を諭しているような口調だった。けれど、状況以前に前提があまりに無茶苦茶だ。とても身の危険を感じて逃げ出そうとした人間に向かって問うような言葉ではない。
 答える様子の無い僕に、明菜さんは一度小さく溜息をついて肩を下ろした。きっと、惨めったらしい哀願の言葉でも聞きたかったんだと思う。でも、この期に及んで強気の態度に出られるほど僕は豪胆でも無い。これほどはっきりとした劣勢を前にしては、少なくとも表面上は負け犬よろしく項垂れて見せるしか他無いのだ。
 本当に僕をどうするつもりなのだろうか?
 この圧倒的不利な体勢からなら、明菜さんには好きなだけ殴られる事も出来る。首を絞められても抵抗らしい抵抗も出来ないだろう。ねちねちと痛みだけを加えられる事だって可能だ。
 自分以外の人間に命を握られる感覚。これが多分死の恐怖というもので、まさにこういうものだと実感している。正直、とても正気を保っていられるような気分ではなかった。映画やマンガでは、こめかみに銃を突きつけられても平然と笑みを浮かべるシーンがある。それは単に創作だからとしか思っていなかったが、そもそもこういう状況ではこう振舞いたいっていう願望もあるんじゃないかと思う。息も詰まるような威圧感を前に、どう感情を往なして行けばいいのか。少なくとも凡人の僕に出来る事は、ただ顔を引きつらせながら身を強張らせるだけだ。
 そっと、明菜さんが右手を持ち上げ僕の顔へと伸ばしてくる。手は拳を作っておらず緩く指を開いている。顔を殴るのではなく首を絞めてくるのだろうかと僕は戦慄する。
 死にたくない、という単純な言葉による生への渇望、執着。自分が死ぬ苦しみを味わうのが怖いのか、家族と離れ離れになりたくないのか、とにかく色々な考えが頭の中で渦巻いてうまくまとまらなかった。
「雄太君……」
 僕の名を呼ぶ明菜さんの声は不気味なほど穏やかで、ねっとりと絡みつく粘質の恐怖をまとっていた。僕を殺そうとしている人間がこんな間近にいて、しかも身動き一つ取れない事に、遂に僕は恐怖のあまり目をぎゅっと閉じてしまった。もはや明菜さんの顔さえも見る事が恐ろしくて仕方なかった。そんな事をしても何一つ状況は変わらないのだけれど、少なくとも余計なものは見なくて済む。たったそれだけの気持ちである。恐怖で発想が幼稚になっている。たったそれだけの自己分析を辛うじて思い浮かべた。
 首を絞められて殺されるのはどういうものなのだろうか。必要な握力はペットボトルの蓋を開けられる程度で良いと聞いた事がある。だから女性でも十分出来るのだが、当然首を絞められている相手は苦しさのあまり激しく抵抗するそうだ。しかも相手が死ぬまで死に行く形相を見ていなければならなず、よほどの恨みがあるか神経がどうかしているかしていなければ不可能だ。けれど、神経の正常云々は今更問うまでも無い。明菜さんは絶対にやる。それも嬉々としてやるような人間だ。
 明菜さんの指先が僕の喉下へ触れる。それは思わず背が跳ねそうになるほど冷たい指先だった。本当は包丁の刃先を当てられているのでは、とすら思えてくる。
 遂に僕は恐怖を抑えきれなくなった。じわりじわりと迫り来る自分の死を実感する事がこれほどの苦痛だったとは。ある程度の覚悟はしていたけれど、それでも屈服せざるを得ない事は屈辱ではある。しかしその屈辱すら屈辱とも思わなくなるほど、理性が屈するという事は僕の中の何かを壊してしまうようなものだった。
「お願い、助けて……!」
 必死で搾り出した声は半ば涙声だった。親以外の人前でこんな醜態を晒したのは生まれて初めての事だ。けれど、それほどまで僕は死ぬのは嫌で恐ろしかった。歯を小刻みに鳴らし目をぎゅっと瞑ったまま全身を震わせる自分の姿は容易に想像がつく。全ては計算も何もあったものではない、単なる感情の吐露だ。
 哀願したからと言って助けてくれるはずはない。しかし、明菜さんは喉元に当てた指をつーっとなぞり上げながら、僕の鼻の頭を押した。
「雄太君? どうしたの? 自分で死のうなんて、馬鹿な事を考えちゃいけないわよ?」
 それはいささか困惑したような口調だった。
 静寂が訪れる。
 僕は明菜さんの言葉を理解するにはしばしの時間が必要だった。明菜さんも僕の言葉を理解するには時間が必要だったようで、途端に黙りこくってしまった。けれど、目を瞑って頭を幾ら動かしてもさっぱり状況が掴めなかった。ただ、自分が何か根本的に思い違っている事だけ漠然と分かっただけだ。
 これはどういう事なのだろうか?
 そういう意味を込めて、恐る恐る目を開いた僕が発した最初の言葉はそれだった。
「……え?」