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 僕と明菜さんは、薄闇の中で互いに目を合わせていた。僕は恐々とした慎重な視線を、明菜さんはきょとんとした不思議そうな視線を向けている。お互いが相手の反応や言葉を想定していたものとは食い違っている事に気付き動きを止めたその瞬間。自然と普段通りの会話が執り行われ始めた。
「あの……何の事を言ってるんですか?」
「雄太君こそ。助けてってどういう事?」
 何かがおかしい。
 それに気付いた僕は呼吸をゆっくりと鎮め気持ちを落ち着けていく。そして、薄闇の中、僕に馬乗りになる明菜さんの表情をよくよく見てみると、やはりそれは普段通りののんびりした表情だった。ただ、僕の様子があまりに異様なのか訝しげに眉間へ皺を寄せている。
「それは、その……。明菜さん、今、僕のこと殺そうとしましたよね?」
 もしも明らかな殺人犯を前にそんな質問をしたのなら、これほど間抜けな事は無いだろう。けれど、僕はもしかしたらという予感があった。状況証拠だけは完全にそうだと判断できるものが揃っていたけれど、目にしている今の明菜さんの反応がそれとは全く異なっているからである。
「ちょ、ええっ!? なっ、殺っ、え!?」
 そして、明菜さんはやはり僕の言葉に驚きも露にして目を見開いた。まさか僕にそんな事を言われるとは露ほどにも思っていなかったというような表情である。それを見て僕は、やはり自分は思い違いしていたのだと実感する。
「何をいきなり言い出すのよ。冗談にしては幾らなんでも酷過ぎるわ。そりゃ、私もちょっと頭に血が昇っていたから少し乱暴だったかもしれないけれど……」
「とりあえず、この状況を先に何とかしませんか? これ、息苦しくてたまらないんですけど」
「そ、そうね……うん」
 明菜さんは僕の上から降りると、まずは茶の間の電気を点けた。蛍光灯の明かりが眩しく表情をしかめていると、明菜さんは僕の全身を縛るガムテープを解き始めた。明かりの下で改めて自分の体を見ると、予想していたよりガムテープは念入りに巻かれていた。ミイラとまではいかなかったが、ほとんど着ているものが分からないくらいだ。どれだけ明菜さんが必死だったのかが見て取れる光景だ。
「それで、どういう事なんですか? 僕が死のうとしているとかって、さっき言ってましたけど」
「え? いや、それはね。うん……。それよりも、雄太君は大丈夫? 私、ちょっと乱暴にしちゃったから……」
 また論点をはぐらかされた。けれど、これ以上の誤魔化しは利かない事ぐらい明菜さんにも分かる状況だ。それなのに説明しないのは、自分なりの段取りを経たいからなのだろう。でも僕はもうこれ以上下手に出るつもりはない。もう、そういう感傷的な態度を許容していくような状況じゃないのだ。
 やがて僕の全身から全てのガムテープが巻き取られ握りこぶしほどの大きさにまとめられると、明菜さんはそっと立ち上がり台所へ向かった。
「一旦、落ち着きましょうか。今、お茶の準備するね」
 そう言う明菜さんは、一瞬どこか陰のある表情を覗かせて行った。それがやけに気になった僕は、再び明菜さんが凶行に走るのではと台所の様子に聞き耳を立ててみたがいつものようにお湯を沸かす音やカップを並べる音しか聞こえてこない。やっぱり明菜さんは僕が危惧するような行動には出ないのだと安堵した。
 しばらくして、明菜さんが紅茶とクッキーを持って戻ってきた。いつもはお茶の時間になるとやたらニコニコしながら運んでくる明菜さんなのだけれど、今ばかりは微笑にも届かない本当に申し訳程度の笑みが口の端に見えるだけで、明らかな深刻の色をまるで誤魔化せていない。
 そして淹れ立ての熱いカップを手に取り、そっと口をつける。ごくシンプルなブラックティーをゆっくり飲み込んでいくと、熱い感触が喉から食道を通っていくのをはっきりと感じた。あんなに暴れたというのに体は随分と冷え切っているようだ。いや、もっと凄いギャップなのは今の僕達だ。つい先程まであんな取っ組み合いをしていたとは思えないこの静寂に満ちた一時、和気藹々とまではいかなくとも穏やかかに過ごしているなんて驚くべき急展開だ。
 お互い無言のまま、ほぼ同時に一杯目の紅茶を飲み干す。そして一息つくと、それもほぼ同じタイミングで吐息が重なった。何となく気まずい空気だった。僕は何も明菜さんに負い目など持つ必要はないのだけれど、どうしても話を切り出し辛かった。明菜さんから切り出してくれないだろうかと思ってはみたけれど、明菜さんも同じ気持ちなのか視線すら合わせようとしない。
 このままでは駄目だ。そう思った僕は意を決し、躊躇いながらも自分から本題を切り出しにかかった。
「あの、実は明菜さんに聞きたい事があるんですけど」
「えっ? なあに?」
「明菜さんには、弟、いましたよね?」
「な、なによう、急にそんなこと訊いたりして」
 明菜さんは動揺を露にしてあたふたと両の手を宙で踊らせる。しかし僕はそれが暗黙の制止である事も無視し、強引に話を押し進めていく。
「とりあえず聞いて下さい。僕がさっき明菜さんに殺されると思ったのは、その事にも関係するんです。僕が寝ているあの部屋で、机の中からパソコンを見つけたので勝手に覗いてみました。すると明菜さんの弟らしき日記が出てきたんです。そこには、彼が明菜さんに様々な酷い仕打ちをされたという事が書かれていました。それだけじゃありません。明菜さんは僕のPDAを水に沈めるか何かしましたよね? 電源が入らなくなっています。そこの電話線だって意図的に壊された跡がありました。これは僕に家との連絡を取らせないためですよね。救急箱の湿布を黙っていた事や、裏山での事だって全部が疑わしい。日記の中身を鵜呑みにしたという訳じゃありません。ただ、こういう状況証拠があるからには、僕は明菜さんがそういう裏の顔を持っているのではと疑わざるを得ないんです」
 柄にも無い長弁を、ここまでほぼ一気に言い切った。緊張から来る軽い息切れさえ感じる。自分の言いたい事は全部言い切ったのだから、これはこれで満足だった。そんな僕に対し、明菜さんは否定の言葉もなくただ黙って俯くだけだった。だけど、否定をしないという事は全て事実である証拠だと僕は思った。もしも一方的な言いがかりを付けられていると感じたなら、よほどの事情でも無い限り普通はすぐさま反論するはずだからだ。
「どうなんですか? そういえば、最初に僕に弟の事を訊かれても答えてくれなかったですよね。普通に考えて意図的に隠す理由なんか無いと思います。なのに隠したという事は、後ろめたい事があったからですよね?」
 俯く明菜さんへ更に追求の言葉を浴びせるのはいささか良心が痛んだ。けれど、これは感情論でおざなりにしてはならない事である。僕は一時は殺されるのかもとすら思ったのだ。どう考えても簡単に見過ごせるような小さな事ではない。
 明菜さんは俯いた姿勢のまま、しばらくの間口を閉ざし続けた。僕はよほど激しい口調で追及しようかと何度も思い悩んだ。こっちは死ぬかもしれないと思ったのだからそれなりの説明が欲しい。それなのに、強硬な手段へ出なかったのは、明菜さんの表情にどこか悲しげな色を見つけてしまったからだ。年上の人間を泣かせる事に罪悪感を感じる訳ではないのだけれど、ただどうしてもそういう表情をしている人に対して僕は強く出られなかった。
 明菜さんが口を閉ざしてからどれだけ時間が過ぎたのだろうか。ふと明菜さんはおもむろに顔を上げると、一変して真っ直ぐ僕の顔を見据えてきた。何かを決心したような、心境の変化を感じさせる表情である。
「その、雄太君……先にあの子の日記、見せてくれないかな? パソコンの事は知っていたけど、使い方が分からなくて触ったこと無いから、そういうのを付けてたなんて知らなかったの」
「はあ……いいですけど」
 いきなり何を言い出すかと思ったら、まさかそんな事とは。それよりも先に答えるべきことはあるだろうと突き放す事も出来る。けれど僕は明菜さんの辛そうな表情に負け、仕方無しにと立ち上がり部屋へとパソコンを取りに行く事にした。
 果たしてあれを読めば明菜さんは納得のいく説明をしてくれるのだろうか。僕は未だ明菜さんに対して疑念が晴れていなかった。