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 茶の間へノートパソコンを持って来ると、卓袱台の上へ置いて開き電源を入れる。ぷつっという音と共に液晶画面へ明かりが灯ると、ハードディスクとファンが俄かに騒ぎ始めた。僕と明菜さんは隣り合って座りながら、起動画面をじっと見つめていた。特に他意は無いつもりだったが、何となくこの沈黙は気まずいものがある。明菜さんには未だ多少の警戒心はあるものの、会話そのものを拒否している訳ではない。普段通りの会話を交わす事に何のわだかまりもない。ただ、お互いが話の切り出しにくさを薄々感じており、そのせいで中途半端に話しかけて余計気まずい会話を繰り広げてしまう事を恐れているのだ。
 やがてOSの起動が終わりデスクトップ画面が表示される。デフォルトの壁紙にアクセサリーのような常駐アプリも無い、実に殺伐としたデスクトップである。持ち主があまり使いこなせていなかったのか、それともそういう飾りを嫌うタイプなのか、そのどちらかだろう。
 僕は早速ローカルドライブを開き日記のある階層へと移った。そこでマウスを明菜さんへ渡して操作を説明する。
「この白いメモ帳のアイコンがファイルです。まずはこれをマウスでクリックして、ポイントして下さい」
「えっと……こうかしら? あ、何か出てきたわ」
「あ、右クリックじゃありません。左です、そう人差し指の方。ポイントすると青く変わるので、そのままダブルクリックして下さい。二回続けて素早くクリックするんです」
 ぎこちない仕草だが、どうにかテキストファイルを開けた明菜さん。ディスプレイには日付から始まる日記本文が表示され、俄かに緊張感を覚えたのか一度座り直してからノートパソコンと向き合う。ふと見た明菜さんのマウスを持つ手が小刻みに震えていた。思わずじっと見つめてしまった僕の視線に気付いたのか、明菜さんは慌てて右手を左手で握り込み押さえる。余計な事をしてしまったと、僕は唇を固く結び視線を外へとそらした。
 それから明菜さんは神妙な面持ちで日記を読み始めた。僕は邪魔にならないよう部屋の外へ視線を移し、静かに紅茶を口へ運んだ。カチカチとマウスをクリックする音が時折聞こえる以外、耳鳴りがしそうなほど部屋は静まり返っていた。ハードディスクやファンの回転音を、これほど頼もしく思った事は無い。今は静寂を破るものならば雑音でも欲しい。自分がわざと音を立てて紅茶を飲んだりクッキーをかじれないだけに、尚更周囲の音源には敏感になった。
「読み終わったら、右上のバツ印をクリックすれば閉じれます。次のファイルをさっきの要領で開いて下さい」
 明菜さんがどこまで読んだのか認識している訳ではないが、何となくこの空気を紛らわすためにそう言ってみた。明菜さんは小さな声で一言、ありがとう、と答えただけで尚も日記を読み続ける。
 そっと明菜さんの方を盗み見てみると、日記を読む事によほど集中しているのか自分の紅茶には一口も口をつけていなかった。それほど弟の日記に執着があったのか、もしくは何かどうしても知りたい事があったのか。僕にはひたすら黙ってパソコンに向かい続ける明菜さんの考えていることなど想像も出来なかった。と言うよりも、明菜さんは一体何者で僕にとってはどういう存在で弟と何があったのか、一気に分からなくなってしまって困惑している。家事好きですぐにお姉さん振る明菜さんと、狡猾で陰湿に虐待する明菜さんと、どちらが本物なのか。ここにいる明菜さんはどちらの明菜さんなのか。推論だけでは一向に答えなど出るはずも無い疑問に、僕はただ思考を空回りさせていた。
 それから随分と長い時間が経った。
 不意に明菜さんの方からマウスの音が聞こえなくなってきた。どうやら遂に読み終わったようである。
 さて、向こうの要求は黙って飲んだ。後は明菜さんにこれまでの一連を納得がいくまで説明してもらわなければならない。僕には知る権利があるはずだ。どういう経緯があったにしろ、少なくとも僕はその延長線に巻き込まれたのだから。
「明菜さん、もういいですか? それじゃあ僕の質問に答えてもらいますよ」
 振り返って見ると、明菜さんはパソコンの前で座ったまま俯いていた。僕への返事はない。
 またそうやって誤魔化そうというのだろうか。そう思った僕は腰を上げて明菜さんの方へ真っ直ぐ向き直った。しかし、
「……明菜さん?」
 よく見ると、明菜さんは両手で顔を覆っていた。その仕草は、泣いているようだった。明らかに聞こえるような嗚咽は漏らしていない。だけど声を殺して泣いているんだと、そう僕は思った。
 何故、明菜さんは泣いているのだろう? 弟の日記を読んだだけなのに。
 僕は尚更困惑した。まるで状況が掴めなくなってしまった。この反応、やはり明菜さんが弟を殺したというのは僕の間違いなのだろうか? こんな泣くほどの事なんてよほどの理由がなければならないだろう。
「ごめんね……驚いちゃったよね、いきなり泣いたりなんかして」
「いえ……」
 明菜さんは俯いたまま涙を拭って顔を上げ、気恥ずかしそうに笑みを浮かべて見せた。無理のある不自然な笑みだと、僕は思った。
「明菜さん、まず一つだけ良いですか?」
 こくりと頷く明菜さん。その目は今まで涙を流していたという証で真っ赤に腫れている。
「明菜さんの弟がこの家にいないのはどうしてですか?」
 今このタイミングで訊くような事だろうか。そう僕は躊躇いはしたが、それでも訊かずにはいられなかった。むしろ訊くのは今じゃないかとも思う。なんとなく、今ならば明菜さんも素直に答えてくれる。そんな気がした。
 僕の問いに明菜さんは視線を下げ、しばし沈黙した。やはり気軽に口に出来るような事ではないのだと思った。けど、明菜さんはそれほど間を置かずに顔を上げ、真っ向から僕の方を見据えてきた。その予想外の強い仕草に、僕は少しだけ戸惑う。
「私の弟ね、明良っていうんだけど……」
 躊躇いがちに話し始める明菜さん。だけど、言葉と言葉が長い空白を空ける事は無かった。それに何よりも表情がはっきりと語る意志を告げている。
「雄太君も薄々勘付いていると思うけど、もう死んでるの。三ヶ月も前に」
 三ヶ月と言ったら、アメリカが奈落を見つけるよりもずっと前の頃だ。
「その、どうしてですか……? 差し障り無ければ」
「うん……家を出てすぐそこに栗の木があるでしょ? そこで、首を……」