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「それって、自……殺?」
 恐る恐る訊ねる僕に対し、明菜さんは無言でこくりと小さく頷いた。
「でも、一体どうして? なんで急にそんな事……」
「うん……。うちもいろいろあってね。まずはそこから話さなくちゃ駄目かな」
 明菜さんはようやく自分の紅茶へ手を伸ばし口をつけた。しかし、とうに冷め切っていて味も悪くなっているせいか、すぐに眉を潜めてカップを卓袱台へ戻した。小さく短い溜息をつく明菜さん。その様子はどこか辛い気持ちをぐっと抑えているようにも見えた。
「うちはね、もう両親がいないの。一年前に旅行先で強盗に襲われて。昔から仕事一筋で新婚旅行も行かなかったんだけど、去年の春先に明良が商店会のくじ引きで偶然に旅行券を当てたの。私も明良も手がかからない歳だし、この機会に旅行でもしたらって事になって。明良も気難しい頃だったから両親とすれ違いが多くて、それをあの子なりに何とかしたい気持ちもあったと思うの。新婚旅行もあるけど、そういう明良の気持ちを汲んで二人は無理に仕事の休みを取って出かけたわ。なのに、それがあんな事になってしまって……」
 世間一般からすると、僕が両親と良好な関係でいる事は非常に稀なのだそうだ。ほとんどは擦れ違いや対立を起こして、コミュニケーションも取れていない事が多い。明菜さんの弟、明良も、そういう状況だったのだが、それを何とかしようと焦っていただけ僕に似た心境だったようである。しかし、せっかく舞い込んできた思わぬ幸運がそんな状況を引き起こしてしまったとしたら、自分を責めても仕方の無い事だと思う。たとえ不可抗力だとしても、そもそもの引き金を引いたのが自分だと思わずにはいられないはずだ。
「事件以来、明良はとても心が不安定になったわ。両親が死んだのは自分のせいだと、自分自身を責め続けて。学校にも次第に行かなくなり、夜もほとんど眠れてはいないみたいだった。食事もまともに取らず、部屋に何日も引きこもる事もあったわ。児童相談所にも相談したけれど、結局は何も進展しなくて。だからもう少し強硬な手段を取るしかないって、そんな事を話し合っていた矢先の事だったの。明良が遂にあんな……。あれ以来、明良はずっと私を避けるようになったわ。それがどうしてかずっと分からなかったんだけど、さっき明良の日記を読んでようやく分かったわ。あの子はきっと、私が自分を責めているんだと思い込んでたんだと思うの。私は無理にでも明良とは接していこうとしたんだけど、責められてるって思い込んでいたからあんな風に取っちゃったんでしょうね……」
 言葉を濁すように顔を覆い、そのまま卓袱台の上へ両肘をつく。当時を思い出しまた涙が出てきたのだと思う。僕は出来るだけ視線を向けないように心がけた。
 明良の日記は、結局はほとんどが事実と反する事で、たとえ事実だとしても罪悪感から偏った捉え方から書かれたものだったという事になる。明菜さんは明良を恨むとかどうとか、そういう負の意識を向けた事は無い。むしろ家族としてこれ以上ないくらい愛していた。そんな明菜さんが、あんな内容の日記を読む事はどれだけ辛いか、想像に難くない。せめて自殺だけでも食い止められたら、対話して解き解していく機会もあったはずだ。それが適わなかったのは、ただ単に不運だと言うしかないのだろうか。
「最後の何日かの明良は特に塞ぎ込んでたわ。今の雄太君みたいに。だから今度こそはって、何とか元気付けようと思ったんだけど。それでもあんな調子のまま部屋に戻っちゃったから、もしかしたらって。私、ずっと寝ないで見張ってたの。そうしたら夜中になって外へ出ようとするから、てっきり明良と同じ事をするんじゃないかって思って、つい」
「そういう勘違いをした訳ですか。まあ確かに落ち込んでるようには見えたと思いますけど……」
 明菜さんは死んだ明良の直前の行動と昨日の僕が似ていたから、そんな風に思い込んでしまった。それでつい、必死になるあまりにこんな乱暴な行動に出てしまったのだろう。おっとりした明菜さんらしからぬ行動だと思ったけれど、勘違いしていたのならば明菜さんらしい行動に思える。
 明菜さんは目元を拭いながら顔を上げた。相変わらず浮かべる笑みには無理があり、ぎこちなさが否めない。
「どうして電話線を潰したりしたんですか? それは関係ないと思いますけど」
「その……雄太君があんまり明良に似ているから、行って欲しくなくて……」
「湿布を出してくれなかったのもそれで?」
「あれは違うわ。だってあれは温湿布だもの。私がよく足に貼るの。立ち仕事はどうしても疲れるから」
「じゃあ僕のPDAは? 僕を行かせないために壊すなんて、幾らなんでもあんまりですよ」
「それは知らないわよ。電池が切れたんじゃないの? 単三電池なら買い置きがあるから入れ替えて試してみたら?」
 電池ではないのでそれは丁重に断り、僕はすぐさまカバンからPDAとアダプタを取り出した。
 もしかしたらとんでもない見落としをしているのではないか? そう思いながらコンセントに繋げてPDAの電源を入れてみる。すると案の定、何事も無かったかのように画面がいつも通り表示された。右下のバッテリーのインジケータを確認すると、充電中のステータスで残量が二桁を切っている。電源が入るか入らないか微妙な容量だ。
「僕の勘違いでしたね……すみません」
「だよね? もう、何もかも私のせいにするなんて酷いわ」
「普通、電話線潰すとかしますか? 僕、そういう事をするのはドラマでしか見たこと無いですよ。サスペンスものの」
「だってそれは……。悪い事をしてると思ったけど、やっぱり一人になるのは寂しいかったから……。もうちょっとぐらいなら一緒にいても大丈夫かなって思って。ごめんなさい……」
「あ、いえ、その。別にいいんです。責めてる訳ではないので……」
 あまりに悲しそうな表情をされ、つい僕は意見を引いてしまった。本当は今後の行動に影響する非常に重大な事なのだから、厳しく追及するべきなのだけれど。明良の事もあるし、何より明菜さんに悲しげな表情を見せられては強く出る事なんて出来ない。女の涙は武器だとか昔から言われるけれど、意図して見せているのならともかく明菜さんはそういう人ではないから、そういう事を考える自分の気持ちそのものが咎められる。
 結局、全部僕の勘違いだったのだ。明菜さんは表裏も無く、こんなご時世に見ず知らずの僕を介抱してくれた、優しさに溢れた人だ。それが、あんな荒唐無稽な日記が切っ掛けで、疑い深い僕の性格も災いし全てを悪い方向に捉え曲解に曲解を重ねてしまった。実に滑稽な一人相撲である。人を信じられなかったばかりに、こんな騒動を引き起こしてしまった。今の日本は奈落の影響で無政府状態のような混乱が起こっているけれど、それもまた同じ事なんだと思う。信じられないから自分の解釈だけで行動し、それが更に誤解や曲解を引き起こす。池に石を投げるのと同じだ。奈落という石が池の真ん中へ放たれ、そこから混乱の波紋が広がっていく。人はさながら水面に浮かぶ木の葉だ。
 でも、明菜さんとはきちんと理解し合えて良かったと思う。命の恩人をずっと誤解したままでいるのは、いずれ大きな後悔を生むはずだから。
「ねえ雄太君、明日は裏山へ行かない?」
「何ですか、急に。別にまあいいですけど。どうしたんですか?」
「明良に会わせたいの」