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 その晩は紅茶をもう一杯だけ飲んでからそのまま床へ着いた。別にその一杯と決めていた訳でもなく、ただ何となく終わりにしたような感じだ。
 あれだけの騒ぎをした後だから、お互いどことなく気まずく思っている。そもそも、僕も明菜さんもそういう気まずさを感じない方がおかしい。僕達はそういう関係なのだ。赤の他人で、それもまだ出会ってから間もない。初めこそ忙しなく漫才のような掛け合いをしていたけれど、結局それは奈落による混乱のせいでまともに人と話す機会を取り上げられてしまったから、つい嬉しくて舞い上がっていただけだと思う。それが、こうしてお互いの心の距離をはっきりと再確認出来た事でしかるべき距離を取れただけだ。
 そんな事を考えながら、いつの間にか僕は眠りについた。そして次に目を覚ました時は既に朝だった。夢はまったく見なかった。本当に目を閉じて開けただけのような、あっという間の眠りだ。けれど眠気は全く無かった。ただ、体はじっとりと疲れたような重みがあった。睡眠時間が短いせいか、もしくは昨夜の事で消耗しているかだろう。
 台所からは包丁の音は聞こえて来ない。明菜さんはまだ眠っているのだろう。しかし寝直す気になれなかった僕はゆっくりと布団から体を起こした。
 薄っすらと靄の掛かる頭を掻きながら取り留めなく今日までの経緯を思い返し、そして小さく溜息をつく。い奈落が夢の中だけの存在だったらいいのに、といつも思う。奈落さえなければ、僕は自分の日常を壊される事はなかったのだ。こうして家族と離れ離れになる事も無い。ただ、それなら明菜さんと出会った事は無価値なのかと言えば、そうでもないと思う。人との繋がりに価値がどうこうとか、そういう事は論じたくは無い。
 余計な思考で無駄な力を使う事は止め、僕はゆっくりと足を気遣いながら布団から這い出た。慎重に右足の具合を探る。すると思っていたよりも痛みを発していない事が分かった。単に我慢出来るレベルというだけでなく、これならきっとその気になれば走れるんじゃないかと期待出来るほどだ。
 この足の具合だったら、今なら確実に逃げ出せるな。そんな馬鹿な事を考え一笑し立ち上がると、思い切り背伸びをし肩を解した。
 思い返せば、何という夜だっただろうか。今までの人生で、これほど濃厚な体験をした記憶は無いだろう。何せ、本気で死を覚悟したほどだ。よほど特殊な世界に身を置いてでもいない限りは有り得ない状況だろう。その上これが笑える事にただの勘違いだというから始末に置けない。
 部屋を出て洗面所へ向かい顔を洗って寝癖を直す。朝は少し肌寒く、自然と肩を抱くようにして廊下を歩いた。これで雨でも降られたら本当に身動きが取り辛くなる。空を見てみると突き抜けるような雲一つ無い青空が広がっていた。しばらくは天気の心配はしなくても良いかもしれない。
 ひとまず茶の間へ行き、テレビをつけてみた。まず映し出されたのは騒がしい白黒の砂嵐だった。まだ時間的に早いせいだろうか、とあちこちチャンネルを回してみたが、一局も放送しているチャンネルが見つからない。NHKすら砂嵐だ。時刻は五時を過ぎている。幾らなんで一局くらいは放送を始めても良い時間帯なのだけれど。
 やがて僕は諦め、溜息をつきながらテレビを消した。どうやらテレビ放送は完全に終了してしまったようである。テレビはつければ何か放送しているのが当たり前の事だっただけに、言い知れぬ喪失感とショックに苛まれた。日本が無くなってしまう実感がより高まっていく。
 それから僕は台所へ入って水を汲み飲んだ。冷たい水は空き腹にはいささか刺激が強く、思わず顔をしかめてしまう。けれど、水道が今まで通り使えている事がテレビ放送が終わったショックを和らげてくれた。考えてみれば電気もガスも当たり前のように通じている。それはつまり、奈落から逃げようと大勢の人間が国外へ脱出している最中、まだインフラを維持している人が日本に残っているという事だ。タイタニックが沈没する時に最後まで合奏した音楽家と同じ心境なのかは分からないけれど、自ら日本に残ってくれている人がいると思うと何だか嬉しくなる。もっとも、その他大勢と同じ脱出組の僕が言うべき事ではないのだけれど。
「あら? おはよう。もう起きてたんだ」
 茶の間に戻ると、丁度明菜さんがやって来た。朝から普段通りのテンションで、相変わらず元気だなと溜息をつきそうになる。
「御飯はこれから用意するから、もう少し寝ててもいいわよ?」
「いえ、何か目が冴えちゃってるんで。のんびり待ちますよ。下手に手伝ってもまた怪我するだけだし」
 僕は一旦部屋に戻ってPDA取って来ると、茶の間で腰を下ろし電源を入れた。寝る前に充電をしておいたので、いつも通りに画面が表示される。ただのバッテリー切れを明菜さんが水没させたせいだ、とか我ながら随分と飛躍した発想をしたものである。一つ固定観念があると、他の判断が全てそれを基準に下されるそうだが、全く持ってその通り、実に典型的な反応をしていたようである。
 最近はほとんどネットに繋がらなかったが、一度だけ繋がった実績があるので試しにやってみた。けれど、あっさりと接続は失敗してしまった。やはりあれは偶然だったのかもしれない。ネットで情報を集める事もメールチェックも出来ないのでは意味は無い。僕は電源を落として卓袱台の上に置き、溜息をつきながら寝転がった。
 ぼんやりと何をするでもなく天井を見つめていると、程無くして台所から包丁の音が聞こえて来た。その音がやけに心地良く、気が付くと口元を綻ばせた妙な表情をしていた。何が心地良いのかと締め直すものの、わざわざそう否定する理由も無く、むしろそんな自分が滑稽に映った。そういう奇妙な心境の原因は、僕と明菜さんの関係そのままを反映しているせいだと思う。見ず知らずの他人であり、命の恩人という重い繋がりであり、今までの人生で馴染みの薄い年代の人であり、あらゆる意味で関係性の無かった人と一つ屋根の下にいるのだ。奈落なんて異常な現象も相まって、むしろ全てに現実味がない。
 しばらくして明菜さんが卓袱台へ朝食を並べ始めた。今日のメニューは玉子焼きとぶり大根に豆腐のあんかけとキャベツの味噌汁。少し量が多いように思ったけれど、香りが良いせいか不思議と食欲がそそられた。
「いただきます」
「いただきます」
 手を合わせ食べ始める。相変わらず明菜さんは料理が上手で香り以上に食が進んだ。単純に、誰かと一緒に食べるからそういう気持ちになれるという事もあるかもしれない。ただ、それを口に出すのはどうにも気恥ずかしさがある。特に自分よりも年上の人相手には尚更だ。
「そういえば明菜さん。ちょっと聞いてもいいですか?」
「なにかしら?」
「昨夜の事なんですけど。ほら、明良に会って欲しいって言ってたじゃないですか。それってもしかして、これから、その、お墓に?」
「ええ、そうよ。月命日じゃないけど、一応紹介とか挨拶とか、形式だけでもしたいなあって思って」
「でも、裏山になんか墓地は無かったですよね?」
「そうね。でも行けば分かるわ」
 分かるって何が分かるんだろうか。
 とりあえず僕は納得した振りをして、後はその時に確かめる事にした。明菜さんが僕の妄想していたような人ではなかったという事がはっきりしただけに、あまり強く突っ込んだ質問が出来ないせいもある。命の恩人を犯罪者と疑ってしまった負い目で躊躇ってしまうのだ。