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 朝食が終わって間も無く、僕は明菜さんに連れられて裏山へ出かけた。
 まだ午前中という事もあって空気が澄み渡っている気がした。けれど日差しの温かさが涼しいとは感じさせない。むしろ額にじんわりと汗が湿るほどの陽気だ。
「足、大丈夫? 痛くない?」
「平気ですよ。もうほとんど治ったようなものですし」
「それなら良かったわ。私、雄太君の上に乗ったりしちゃったから、もしかしたらって思って」
「道理で。なんか肋骨の辺りが痛むんです」
「もう、意地悪ね」
 一昨日も登った急勾配は、今日は随分と楽に登る事が出来た。断崖を登ろうとして落ちた時には確実に危険な角度へ足首を曲げてしまったと思ったのだけれど、挫き方が良かったのだろうか、実は怪我の悪化にもなっていなかったのかもしれない。綺麗な骨折とは聞いた事があるけれど、綺麗な捻挫なんてあるのかどうかまでは知らないが。
 明菜さんが裏山と呼ぶ小高い原っぱまで登ってくると、今日は周囲の景色を堪能する事も無くそのまま奥へと進んだ。その先にあるのは、僕が足を踏み外したあの断崖である。そういえばあの時、僕が断崖を登ろうとしたのは頂上に何かが建っているのを見つけたからだ。結局あんな事になってしまったので確かめなかったから、何があるのか分からず仕舞いである。
「もしかしてあの上に行くんですか?」
「そうよ。足なら大丈夫でしょ?」
「いや、僕は大丈夫ですけどね。明菜さん、あんな小さい道を通れますか? あれ、子供ぐらいの体重しか支えられないと思いますけど」
「あんな危ない所なんか通らないわよ。だって裏側に回れば、ちゃんと安全な道があるもの」
「あ、そうなんだ……」
 という事は、僕はかなり間抜けな怪我をしたという事になる。やはり突発的な行動は身を滅ぼすものだ。いやそれ以前に、それこそが僕が最も嫌う幼稚な発想である。
 断崖の下までやってくると、そのまま半時計回りに断崖の裏側へと回り込む。するとそこには、ここへ来る時よりも遥かに緩く長い坂が断崖の天辺へと伸びていた。こうして見るとこの断崖は実は自然に切り立ったものではなく、この付近が元々工事現場か何かの跡地で、その時に土がたまたまここに積み上げられていたもののようである。
 何故こんな所に連れて来られたのだろうか。確か明良のお墓参りに行く予定だったはず。そう疑問に思いながらも、僕は薄々その理由に気付き始めていた。頂上が見える頃にはもう無口になってしまった。余計な事を口に出来ない、そんな雰囲気に飲まれてしまっているからだ。
 やがて辿り着いた頂上、その先端に建っていたのは薄黒い金属片を寄せ集めた造形物だった。工事現場の廃材置き場にありそうな物ばかりである。咄嗟に僕はそれが墓標だと分かった。はっきりと名前が刻まれている訳ではなかったが、明らかに埋葬している場所特有の空気がそこには漂っている。僕はたじろいでしまった。あの凄惨な文章を書く彼の姿を想像してしまったせいもあるが、こんな凡そ墓地らしからぬ場所に埋葬されている事に現実味が無く背徳的に思えたのだ。
「明良、久しぶりね」
 明菜さんは故人がそこに居るかのように、そう優しげに墓標を撫でながら語りかけた。ふと僕はそんな明菜さんの姿に違和感を感じた。どういう違和感なのか自分で説明は付けられなかったが、どこか明菜さんの仕草は不自然なように思えた。一つだけはっきり分かるのは、明菜さんの墓標を見る目が明らかに故人を偲ぶようなそれではないという事だ。弟の名前を口にするだけでもあんなに複雑な表情を浮かべるというのに、今の明菜さんにはそういう感情がすっぽりと抜け落ちたかのように、挙動が薄っぺらで軽々しい。
「雄太君、こっち来て挨拶して」
「ああ、はい」
 普通こういう時は挨拶じゃなくて、手を合わせるとか言うのが普通じゃないだろうか? 明菜さんの挙動を訝しく思い始めていた僕は、いっそうその感情を強めてしまう。
 目の前でこの墓標を見ると、やはり墓標としてはいびつな形状だった。軸になっているのはコンクリートの中の骨組みにする金属の棒で、それを左右からサッシの余りらしい金属で挟み込んでいる。その周りを金網で幾重も巻き、途中の間にまた金属棒や金属片を挟む。それを何度も繰り返しているせいで形が酷くいびつになっているのだが、もはや不気味としか言いようの無い姿だ。誰にでも美的センスとか芸術の才能とかはあるが、あまりにこれはおかしいと思う。少なくとも日本人の感覚では不気味に分類される形状だ。そして更におかしいと思うのが、そんなものをあえて墓標にしている明菜さんだ。芸術の才能ないですね、と笑い飛ばす気分にもなれない。
「明菜さん、どうしてこんな所に? その、普通はちゃんとした墓地に埋葬するものじゃないんですか?」
「そうね……分かってる。でもね、実は明良はまだ死んだ事にはなっていないのよ」
「どういう意味ですか?」
「明良が死んだ日、私が誰にも知られないようにここへ連れて来たから」
 それはつまり、家の前の栗の木の所で変わり果てた明良を見つけてすぐここまで運んで来たという事なのか? 誰にも見つからぬように?
 けれど、それは明らかに異常な行為だ。少なくとも日本社会では、そういう行為には罪状がつく。
「ちょっと待って下さい。三ヶ月前ですよね? それじゃあ、ずっと隠していたって事なんですか? 近所にも、警察にも、学校にも」
「そうよ。最初は学校の先生とか児童相談所の人が来ていたけれど、部屋に篭もって出ようとしないから、って嘘をつき続けたわ。それでも一目だけでも確認したいって食い下がる人はいたけれど、私が責任を持って少しずつコミニュケーションを取らせるようにするとか何とか言い包めて。そうしている内に世間が奈落の事で騒がしくなって、誰も明良の事を訪ねて来なくなったの。後はそれっきりよ」
「幾らなんでもまずいですよ、これって。警察に届けるべきですよ。その、遺棄になりますから」
「分かってる。でも、これだけは譲れないの。どうしても」
「どうしてそこまでして隠す必要があるんですか?」
「明良が死んだって分かったら、みんなに取り上げられるような気がして」
「取り上げられる?」
「知ってる? 人って死んだら誰のものでも無くなるのよ」