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 その夜もいつも通りに夕食を取った。
 明日からの移動に向けて体力を付けなくてはいけないので、普段よりも御飯を多めに食べたからお腹が苦しい。僕はゆっくりお茶を飲みながら食休みを取った。
 明菜さんが台所で洗い物をしている間、ようやく腹の落ち着いた僕は一旦部屋へ戻って明日の出発の準備を整えた。これといって荷物がある訳でもないので、ほとんど整理みたいなものである。どうしても必要な物があれば、それは明菜さんにお願いしてみればいい。
 出発の支度を終えて茶の間へ戻ると、明菜さんが食後の紅茶を準備していた。少し体を動かしたせいか喉が渇いていたので丁度良い。早速自分の席に座り明菜さんからカップを受け取った。
「これはアールグレイよ。あ、なんとかファイブとか言われてもお姉さん分からないからね」
「言いませんよ、別に。あれは単なる嫌がらせみたいなものですから」
「ホント、君のそういう所は可愛くないわね」
 明菜さんと漫才のようなやり取りをしながら飲む紅茶は美味しかった。ただよくよく考えてみれば、元々紅茶を飲む習慣の無い僕が紅茶を楽しむようになったのは随分大きな変化である。食事にはこれと言った拘りも無く、よくコンビニで買い食いするような生活をしていたから、味を楽しむという概念そのものが無かった。明菜さんの家に居候した間、しばらくぶりの手料理と本格的な紅茶を体感した事で味覚が変わったのかもしれない。成長かどうかまでは分からないが、少なくとも一度美味しい紅茶を飲んだからには二度と市販品を買って飲もうという気にはなれそうにない。
 一杯目の紅茶を飲み、二杯目を明菜さんに注いで貰うその時、ふと僕は立ち上がって廊下に出た。カーテンを開けて夜空を見上げると、そこには真っ赤に輝く小望月の月が浮かんでいた。
「明菜さん、ちょっとこっち来て見て下さい。今夜の月、真っ赤ですよ?」
「あら、本当。こういうのって、本当にいよいよ終わりかなって感じがするね」
「日本の?」
「ううん、世界の。世界が真っ赤に燃え上がって燃え尽きようとしてるみたい」
「月が赤く見えるのは、赤以外の光が埃とかで散乱してそう見えるだけですけどね」
「文学的な表現ですねって言えばいいのに」
「明菜さんにしてはと?」
 月が赤く見えるのは特別変わった現象では無いが、特に普段から月を見る事も無い都会で暮らす者にとっては一生に何度もお目にかかれる事ではない。珍しいものを見たなら普通はラッキーだと喜ぶものだけれど、赤い月というのはどうにも印象が悪く不気味に映るからあまり嬉しいとは思えない。見た目のインパクトや雰囲気から、明菜さんではなくとも世界の終わりそのものと連想してしまう。
 それから僕と明菜さんは、二人揃って廊下に座布団を並べ赤い月を眺めながらお茶を続けた。随分と悪趣味な月見である。赤い月なんて眺めた所で自虐的な気分にしかならないし、明日世界が滅ぶとしたらなんてもしも談義も状況が生々し過ぎて花を咲かすどころではない。
「昼間の話の続きだけどね。うちの両親ってずっと共働きだったの。いつも帰りが遅くって、揃って御飯食べる事なんかほとんど無かったわ。だから明良の面倒はずっと私が見てきたの。御飯も作ってあげてたし、洗濯や掃除、勉強も見てあげてた。さすがに授業参観とかは無理だけど、とにかく私に出来る事は何でもやってあげようと頑張ってた。だから私にとって明良は、弟というよりも子供って存在なの」
「歳も離れてるから尚更?」
「そういう事もあるのかも。それで私は、明良をずっと独占したいって思っていたわ。だから両親には対抗意識を燃やしていたの。明良は私が育てるんだから二人は口を挟まないで、って。そもそも私は両親の事が嫌いだったのかもしれない。いつも仕事ばかりであまり構ってくれなかったから、私の事なんて嫌いなんだってずっと思って育ったもの。本当はいけない事だけど、両親が死んだ時も少しだけホッとしたの。これで、明良は私だけのものになったから」
 そう明菜さんは小さな声で笑い始めた。笑い声は徐々に大きくなっていき、最後には大笑い、ただの馬鹿笑いとなった。
 僕は何も言えずただじっと明菜さんを見つめていた。本当は見ていられないほど痛々しくて、悲しかった。明菜さんは素直には泣けないから、あんな風にしか感情を爆発出来ないんだと、そう僕は思った。
「雄太君って、本当に明良に似ているの」
「顔が?」
「雰囲気が。理屈っぽくはなかったけど、何となく持っている空気? オーラ? 何かそういう見えない所が」
「似たような歳の男の子をたまたまそう錯覚しているだけですよ。思い込もうという気持ちが強ければ強いほど、そう思えてくるものです」
「雄太君ならそう言うと思った。でも、それでも私は雄太君が来て嬉しかったわ。まるで明良との生活が戻ってきたみたいで」
 赤の他人に家族を重ね見られる感覚は未だに良く分からない。けれど、僕の存在がそうも嬉しく思ってくれるのであれば、僕もまたそれを嬉しく思う。素直に言ってくれた明菜さんに、僕も同じぐらい素直に思った。けれど、だからこそ、そう言ってくれた人に明日出発するとは言い辛い。その嬉しい気持ちに、僕の方から終止符を一方的に打つのはあまりに辛い決断だ。
「でも、僕は……」
「分かってる。明日、早いんでしょ? 起こしてあげるわ」
「すみません」
「ありがとう、でいいわよ。家族が一番大事だって、私も分かるからね」
 そう明菜さんはにっこりと微笑んだ。年上というよりも同い年の女の子という印象の、本当に無邪気で屈託の無い笑顔である。
 いつの間にか空になった互いのカップに明菜さんが紅茶を注ぐ。そしてカップとカップをそっとぶつけて乾杯の真似事をし、明菜さんは爽やかな笑みを、僕は照れ隠しのような苦笑いを浮かべ肩をすくめる。明菜さんは僕を弟と思っているけれど、僕にとって明菜さんは決して姉という存在ではなく、単なる年上の女性だ。いや、既にそこには特別な意識がある。ただそれを端的に表現する言葉が見つからないだけだ。
「あの、明菜さんはいつまでここにいるつもりなんですか?」
「どうして? ここは私の家よ。ずっといるわ」
「僕が言いたいのはそういう事じゃなくて。どこかに避難はしないんですか? もう一週間もすれば、日本は奈落に飲み込まれちゃいますよ」
「でも、明良を一人には出来ないわ」
「それは分かりますけど、そしたらどうなるかってのは当然分かってて言ってますよね?」
「雄太君らしくないね。どうしたの? こういうのって価値観の違いって奴でしょ?」
「だってそれは……! その、命の恩人の命に関わる事ですから、口の一つも挟みたくなりますよ。僕だって感情論で動かない訳じゃないんですから」
「そうね」
 明菜さんはただ微笑み、そっとカップへ口をつけ傾けた。僕はもう何もかけてやるべき言葉が見つからなくて、視線の先を夜空の赤い月へと向けた。見れば見るほど不気味で忌々しく思う赤い月、世界の構造が不整合を起こした結果なのか、ただとにかく苛立っていた。自分の無力さが腹立たしいというより、むしろあまりにあっけなく壊れていく世界の脆さに腹が立つ。
「ねえ、奈落の中には何があると思う?」
「なんでしょうね。ブラックホールみたいな超重力の虚数空間かな。アインシュタインが提唱するワームホールがあるとすると、相対性理論に異論を出していた学者達はぐうの音も出なくなって面白そうですね」
「君は子供のクセにロマンが無いわね」
「大人になっても科学のロマンを理解出来ないなんて同情しますよ」
 そうやって奈落とか世界の崩壊に苛立つという事は、少なくとも僕はまだ全てを受け入れて達観していないという事だ。死の覚悟が出来ていないため、突然の死に対し心の準備が出来ず絶望のまま臥してしまう恐怖が常に付きまとう。しかし最後まで諦めなければ、もしかするとあるかもしれない奇跡や希望へ辿り着くかもしれない。
 僕と明菜さんは決定的に価値観を違えている。僕は前進を、明菜さんは停滞を、それぞれ選択している。だから僕がここで体験した事は、一時前進を止めた事による停滞との交わりである。もしかすると考え直す機会だったのかもしれない。けど結局僕が辿り着いたのは、家族という存在の大切さを再確認する事だけだ。
「本当に綺麗……」
 月を見つめる明菜さんの目は赤い光を反射して、真っ赤に輝いているように映った。何もモデルもモチーフも無いのだけれど、どことなく達観の言葉が似合う光景だった。
 微かに微笑む明菜さんの表情は、どこか遠くへ馳せているように思えてならなかった。きっともう、そこに僕の姿は無いのだろう。