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「雄太君、起きて。御飯出来たわよ」
 既に日常にまでなりかけているこの家での起床。僕は前々からそうしていたかのように、寝ぼけた頭で半ば唸るような返事を返しながら布団の中でもぞもぞと芋虫のように身を捩る。茶の間の方へ鼻を集中させて香りを探る。ここからではほとんど伝わって来ないのだけれど、微かに味噌汁の香りだけは感じ取れた。
 起きて布団を畳み、洗面所へ向かって身だしなみを整える。それから服を着替えた。ここへ来た時の自分の服である。改めてこれに袖を通すと、いよいよ出発するのだという感慨深い気持ちが込み上げて来た。はしゃぐ訳でもなく、推して進むでもなく、ただ胸が痛いほど高鳴る。
「準備は大丈夫?」
「ええ。問題ありません」
「そっか。じゃあ、御飯にしましょう」
「はい、いただきます」
 今朝の献立は、海老を卵でとじたもの、鳥レバーのしょうが煮、きんぴらごぼう、シラスと青菜のカラシ和えの四品。いつもと同じ和風の朝食だったが、心なしかボリュームが昨日に比べて一段と多く見える。僕の体力を気遣っての事だと思う。
「正直な所、女性で一人暮らしは危険だと思うんですけど。この辺の治安って大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。この近辺で残ってるのは私だけだもの」
「まあ確かに、ある意味では安全ですよね。芸能人でも引退して無人島に移住する人もいたし」
 ゆっくりと咀嚼し朝食を取りながら、明菜さんと漫才のような会話を交わすのもこれで最後になるのかと少し寂しい気持ちになった。幸いにも量が多いから、ゆっくり食べていればその分だけ終わりは延びる。ただ、そういう先延ばしをしている自分の行動が疑問でならなかった。僕は少し長居し過ぎたんだと思う。だから、どうしても予定していた通りのドライな切り分けが出来ないのだ。
 食事を終えると腹ごなしをしながらゆっくりお茶を飲んだ。明菜さんは台所で洗い物をしている。相変わらず下手な鼻歌も聞こえてくるが、これも聞けなくなると思うといっそ録音でもして保存してやりたいような気持ちにさせられる。この瀬戸際に来て、随分と馬鹿な事を考えるようになったものである。
 しばらくして台所から戻って来た明菜さんは、手に何やら風呂敷包みを携えていた。丁度脇に抱えられるぐらいの大きさで、見た目多少の重量感がある。
「ほら、お弁当作ったから持って行って。それからパンも入ってるから」
「ありがとうございます。こんなに戴いて」
「いいの。私はここで終わりだけど、雄太君はまだまだ先まで行くんでしょ? じゃあお腹一杯食べて頑張らなきゃ。ね?」
 そして僕はカバンを背負い明菜さんから貰った風呂敷を小脇に抱えると、玄関の方へ向かった。
 遂に出発の時だ。
 そう思うと言葉数が自然と少なくなり、無言のまま淡々と靴を履いてしまった。すぐ後ろには明菜さんの気配があって、僕と同じように何も言わずに佇んでいる。ただ視線だけが強く背中へ注がれている事が分かった。
「それじゃあ、長居してしまいましたが。本当にお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ大した事もできず」
 玄関を出てようやく踵を返した僕は、最後の挨拶を明菜さんへ切り出した。明菜さんは相変わらずののんびりした明るい笑顔を浮かべ、そっと一瞬目を伏せ軽く一礼する。本当に何一つ変わらない、何もかもが普段通りそのままの仕草だ。動揺している自分が恥ずかしくさえ思う。
「気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
 これでお別れなんだ。
 気が付くと、僕の足はその場で棒のように固まってしまっていた。自分の意思で動かせないというよりも、自分の意思が足を動かそうとしてくれないのだ。
 一体どうしてここに留まろうとするのか。何か思い残した事でもあるだろうか? 少なくとも、人の生き方にあれこれと口を挟むような性格ではないのだけれど。
「ん? どうかした?」
「いえ、その何て言うか……。明菜さん、やっぱりどうしても一緒に来れませんか?」
「どうしたの急に?」
「やっぱり死ぬと分かってて残していくなんて出来ないですよ。ええ、分かってます。僕の言ってる事は自分の価値観の押し付けですよね。分かってます。でも、どうしようもないんです。僕はそこまで端的に物事は割り切れない。何でもかんでも自分の物差しで考える子供なんです。だから、このまま明菜さんを放っておけなくて……」
 これ以上に無い自分の本音を、驚くほどすんなり明菜さんへぶつけてしまった。やってしまった、という後悔は不思議と無かった。代わりにあったのは胸の支えが取れたような充実感である。
 すると、僕は明菜さんにいきなり抱き締められた。
「子供を言い訳にしないの。ほら」
 明菜さんが僕の額を唇で触れた。突然の事で舞い上がってしまうかと思ったが、僕は案外冷静だった。むしろ悲しい気持ちを増長させてしまってすらいると思う。こういう明菜さんにしてみれば大胆と取れる行動が、より今生の別れという意味を際立たせてしまったからだ。
「君がいたこの数日、楽しかったわ。ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございました」
「さ、もう行きなさい。振り向いちゃ駄目よ。それとも、もっとして欲しい?」
「い、いえ……それじゃあ、その……さよなら! 元気で!」
 そんな間抜けな挨拶を残し、僕は唐突に踵を返すと一目散に走り出した。
 走った。とにかく走った。馬鹿みたいに何も考えず走った。
 遠ざかる。あの家から遠ざかる。明菜さんが離れていく。未だそうやって引き摺る僕がいて、それを振り切ろうとする僕もいて、とにかく頭の中が混乱して苦痛が込み上げてくる。和らげるにはもう別な何かに無理にでも徹するしかない。だから僕は走った。
 本当にそうなのか? あの家から逃げ出したかった? いや、これ以上あの場にいたら、きっと僕は自分で自分をあそこへ繋ぎ止めてしまいそうだったから、そうなる前に振り切ったのだ。別れで胸が苦しいのも事実、けれど今はいちいち一つ一つを取り上げて置き場を探している場合ではない。僕に必要なのは、数日間出来なかった前進する事だ。
 やがて息が苦しくなり、足の裏にじんわりと痛みを覚え始めた時、僕はゆっくりと息を切らせながら立ち止まった。
 音を立てて繰り返される呼吸は、まるで壊れた蒸気機関のようだった。全身からはじっとりと汗が滲み、いきなり走ったせいで膝や脇腹が交互に痛みを発している。感情に任せて走ったせいで余計に体力を使ってしまったか。
 僕は思考を切り替え、まずは自宅へ辿り着く事だけに集中することにした。そのためには体力も計画的に使わなければいけない。
 ひとまず歩き出した僕は、休憩もかねてカバンからPDAを取り出し、GPSカードを差し込んで電源を入れた。昨夜に充電はしっかりしておいたから、バッテリーの残量は残り99%を表示している。僕はその隣にあるCFカードのアイコンをタップし、GPS通信を開始した。現在位置を取得出来ないかという試みである。既に衛星回線は使えなくなっているようだが、万が一という事も考えてだ。それに、そもそも道程は把握しているのだから、ほとんどこれは儀式のようなものに近い。
「あ!」
 程無く、僕は一人歩きながら声を上げた。繋がるとは思っていなかったGPS通信が、何故か成功してしまったのである。すぐさま現在位置を取得実家までの道程を確認する。距離にして、大体一晩歩いたぐらいだろうか。とても経験のないとてつもなく長い距離ではあるが、着実に僕は再会へ向かっていると思うと胸が躍る気がした。
 なんか、清々しい気分だ。おかしい、これから世界が滅びようとしているのに。
 きっと、明菜さんも同じ気分であの家に住んでいたと思う。世界が滅びる事よりも、もっとずっと身近で大切な事がはっきりと見えているから、そのためにはどうすればいいのかを分かっているのだ。
 早く家族に会いたい。そして安心させてやりたい。
 秘めた思いがより強くなる事を感じ、逸る気持ちは抑え、ほんの少しだけ歩を速めた。