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 江戸城は徳川初代将軍が天下を平定した折に建築した日ノ本最後の新城であり、設計には他国の侵略をほとんど考慮されていなかった。城壁には矢狭間が無いため弓や鉄砲を撃つには身を表に晒さねばならず、大筒もない楼上も物見以外の役割は無い。それでも敷地を囲む一重の城壁は堅牢、並の大筒程度ではびくともしない頑丈さを誇っていた。攻城という観点からは城壁の破壊はあまり現実的ではない。そのため、それらが門へ集まるのは自然な事だった。
 正門へ押し寄せるそれらは、まるで亡者の如く門へとすがりつき押し込んで行く。門に触れた者から順に火が点き白煙を上げ溶け出すものの、姿形と引き換えに僅かずつ門を黒く腐食させていく。それらの姿は子供ほどの背丈に痩せ細った手足と非常に小柄、しかしその皮膚は鳥肌のような起伏に赤茶けた色素、顔の半分は黄色く光る単眼で口からは黄ばんだ牙を二つ覗かせている。どれもが一目で人間ではない事が分かる容貌だった。そんな異形の大軍がひしめき合いながら江戸城正門前を占拠する光景は、戦乱の世ですら到底考えもつかない不気味さ。まさに文字通りの地獄絵図である。
 異形がびっしりと張り付いた正門は四半刻も経たぬ内に腐り果て、そのまま圧し掛かってくる異形達の重みで内側へ倒された。破られた箇所へ異形達は我先にと殺到し群を成す。しかし、堰を切った奔流の如き異形の軍勢を待ち受けていたのは、藍色の甲冑に身を固めた侍達の一軍だった。
「妖魔共め! またしても現れたか!」
 軍団の先頭に立つのは、全身を覆う大鎧を身に纏った巨躯の侍だった。厳しい頬当てをつけた巨躯の侍は、手にした大槍を頭上で豪快に振り回し石突で地面を強く打ち鳴らす。周囲一体の地が微かに震えた。
「我は名は本多勝往! これより先は一歩も通さぬ!」
 稲妻のような名乗りを上げる勝往。その気迫に異形の軍勢はその場へ一度立ち竦みさえする。しかし、勝往へ対抗するかのように妖魔の軍勢からも一人の妖魔が進み出る。それは真っ赤な炎に包まれた異形の騎馬に跨る妖魔の武将だった。この妖魔の武将は大鎧に赤紫の炎を纏った槍を右手に携えるという、一見すると勝往に良く似た備えだった。ただ一つ決定的異なっているのは、妖魔の武将は勝往のように頬当てをつけていない事だった。代わりに兜の下からは犬のそれに似た鼻頭が飛び出し、目は人のように白黒はなく爛々と黄単色だけが輝いている。
 妖魔の武将は赤紫に燃える穂先を徐に勝往へと向けた。勝往は微動だにせず、ただ真っ直ぐその様を睨みつけている。次の瞬間、穂先に燃える赤紫の炎が急激に膨張し燃え盛ると、そのまま意思を持っているかのように勝往へと襲い掛かった。しかし勝往は眉一つ動かすこともなく無造作に大槍を振り抜くと、襲い掛かる赤紫の炎は風圧に煽られあえなく消し飛んだ。
「いざ、参る!」
 雷鳴の如く鬨を上げる勝往。それに対し妖魔の武将は夜空を仰ぎ、狼の遠吠えの如く高らかと吠える。それを合図に、両軍は各々雄叫びを上げながら激突した。
 勝往が率いる侍達は、いずれも良く磨き抜かれた精鋭ばかり。対する妖魔の軍勢は生まれ持った資質と本能のみという、獣染みた野蛮な戦い方だった。かつて戦乱の世に幾多の豪傑を討ち取ってきた武芸を修める侍達にとって、原始の戦い方で挑む妖魔は姿こそ異形ではあっても恐るるに足らぬ存在だった。しかし問題なのは、そのあまりに圧倒的な物量差である。何匹切り捨てようとも、雪崩の如く正門から押し寄せてくる妖魔の群れが途切れる事は無い。個々の兵の質が勝るのか、それとも量が勝るのか。大々的な消耗戦を繰り広げるこの戦、勝敗の分かれ目はただその一点にかかっている。
 混戦模様の濃い戦況の中、勝往の活躍は群を抜いていた。どれほどの妖魔に群がられようとも大槍の一振りで蹴散らす勝往は、さながら悪鬼を踏みつける阿修羅如く活躍を繰り広げる。しかしそれでも全ての妖魔を圧倒するまでには至らず、疲弊の一途を辿る侍達の劣勢は徐々に表面化し始めた。勝往一人で全ての妖魔を相手に出来るはずもなく、押し切られた侍達が一人また一人と倒れて行く。尚も攻勢を強める妖魔軍、拮抗していた戦局は徐々に傾きつつあった。
 これ以上の消耗戦は不利と見た勝往は防戦を止め、大将格へ狙いを変えると妖魔の群れへ単独で切り込んでいった。妖魔の雑兵を蹴散らしながら向かってくる勝往を自らへの挑戦と見た犬妖魔の武将は、燃え盛る槍を掲げ雑兵を勝往から下がらせる。
 勝往は犬妖魔の武将と相対すると、前足を大きく上げ大地を強く踏み鳴らし、数え切れぬほどの妖魔を切り捨てた大槍を霞上段へ構えた。
「御首、本多勝往が貰い受ける!」
 勝往の大声に対し犬妖魔の武将は自ら馬を下りる。槍が得物ならば馬上にて迎え撃つ方が有利なはず。そう勝往が訝しむも間も無く、跨っていた炎の馬は突然後ろ足だけで立ち上がった。
「何ッ!?」
 驚く勝往の目の前で、炎の馬はあっという間に己の形状を変化させた。既に騎馬の姿はなく、馬頭と蹄を持った巨躯の妖魔兵となっていた。燃え盛る炎は消えてしまうものの、大柄な勝往ですら軽がると見下ろす巨躯には十分な威圧感がある。二対一は明らかに不利ではあるものの、この劣勢の中で一軍を預かる自分が敗北に等しい退き様を晒す訳にはいかない。己を奮い立たせた勝往は大槍を強く握り締め、犬と馬との対となった妖魔の武将へ自ら勇み向かって行く。
 まず討ち取らねばならないのは、この軍を率いている妖魔である。そのため勝往が真先に挑みかかったのは犬妖魔の武将だった。霞上段に構えた大槍を真っ直ぐ前方へ繰り出し、柄の長さを生かしていきなり喉元を貫きにかかる。しかし犬妖魔の武将は難無くその一撃を槍の柄で受け止めてしまう。その間隙を突き、馬の妖魔が蹄のついた左腕を大きく引き絞りながら襲いかかって来た。
「ぐっ!」
 馬の妖魔の蹄は勝往の胸を真っ直ぐ打ち抜いた。打たれた衝撃で勝往の両足は地面を離れ、体が大きく後方へ飛ばされる。勝往は槍の石突きを地面に突き刺して両足を踏ん張ると、体勢を立て直して再度構え、咳を一つついた。勝往の鎧は打たれた部分が蹄と同じ形に窪んでいる。しかし勝往には負傷した様子は見られなかった。
 真っ向勝負ではこちらが不利。かと言って、持久戦に持ち込めば他の兵が持たない。
 強引でも打ち倒さねばならない戦況に勝往は、妖魔達の態勢が整うのも待たず再度突進して行った。声を張り上げながら大槍を振り上げ、犬妖魔の武将へ強烈な一撃を叩き込む。犬妖魔の武将は同じく槍の柄でその一撃を受け止めると、すかさず馬の妖魔が蹄を繰り出してきた。しかし勝往は腹筋へ力を込め全身を硬直させると、あえてその蹄を正面から受け止める。すると馬の妖魔の蹄は鉄板を打ったかのように激しく弾かれた。
「ぬんっ!」
 更に勝往は大槍へ力を込める。叩きつけるのではなく上から押さえつける加重、犬妖魔の武将は両腕に力を込め槍を支えるものの、先に足元が地面へ沈み始めた。このままでは力技で押し切られると判断したのか、犬妖魔の武将は不意に凄まじい咆哮を上げた。次の瞬間、重なった槍の間から凄まじい勢いで炎柱が立ち昇り、咄嗟に勝往は身を焼かれまいと背後へ飛び退き間合いを取る。さすがの勝往も、炎ばかりは跳ね返す事は出来ない。
 犬妖魔の武将は更に咆哮を上げ、手にした槍を頭上で三度振り回す。槍は回すたびに炎を強め、その勢いで周囲へ炎の飛沫を飛び散らせる。見る間に辺りは炎の海と化し、いつしか槍も穂先だけでなく槍そのものが炎に包まれるほどに至った。あまりに速い火の手に躊躇する勝往、そこを馬の妖魔が不意を突いて自ら炎の海を突っ切り勝往へ襲い掛かる。繰り出される右蹄を柄で受け止めるものの、足元に広がる炎に炙られ頬当ての下に苦味を浮かべた。
 このまま押し返すか受け流すか、勝往が思案していたその時だった。突如、城壁の外から一つの人影が宙へ躍り出ると、妖魔の群れの真っ只中へ着地した。そのまま人影は動揺する妖魔達を横目に勝往の方へ向かって飛び出した。
 ようやくそれが人間の侍である事を把握した妖魔達は、勝往の元へ辿り着かれるよりも早く侍を包囲し得意の物量戦で襲い掛かった。腕一本差し込む透き間もないほどひしめく妖魔の雑兵、瞬く間に周囲を取り囲まれ逃げ道を失ってしまった侍だったが、微塵も慌てる様子も無く立ち止まると腰の刀へ手をかけ静かに鯉口を切った。
「かかずりあっている暇はござらぬ」
 侍は小さく息を吐き右腕を脱力させる。直後、風鈴の音にも似た鍔鳴りが辺りに響き渡った。鯉口を切ったばかりの刀が鞘に収まり、鯉口と鍔がぶつかり合った時の音である。次の瞬間、威勢良く飛び出した妖魔達に異変が起きた。突然失速したかと思いきや次々と輪郭が崩れて行き、酸の体液を撒き散らしながら無数の肉片へと化した。圧倒的な数で襲いかかったはずの妖魔の雑兵、それがほんの一瞬で全て肉片となってしまったのである。
 侍は再び飛び出すと、そのまま燃え盛る炎の海へと突っ込んで行く。周囲の異変に気づいた馬の妖魔は鼻を鳴らしながら振り返ると、炎の中から現れた侍が跳躍しながらの唐竹割りで馬の妖魔を強襲した。予想だにしない場所からの登場に馬の妖魔の目が驚愕に見開き、咄嗟ながら左蹄で振り下ろされた刀を受け止める。注意が疎かになったと見るや否や勝往は、すかさず右蹄を振り払うと短く持ち直した大槍の石突で馬の妖魔の腹を強打する。思わず屈みかける馬の妖魔だったが、すぐさま上から襲いかかってきた勝往の大槍には反応し、距離を取るべく後方へ大跳躍する。
「勝往殿、遅れ申した!」
「仁之介殿か! かたじけない!」
 勝往に仁之介と呼ばれたこの侍は、勝往とは異なり胸当て一つ付けず着流しに草鞋だけという軽装だった。武器は腰に挿した刀と脇差のみであり、槍や弓矢といった武具も携えてはいない。到底、戦場に立つ装いでは無い。
「拙者の手勢も間も無く到着する故、それまで何とか持ち堪えましょうぞ」
「承知。我は犬を相手しよう。仁之介殿は馬の方を」
「お任せあれ。拙者の祖父殿はかつて、駄馬に蹴られ戦に遅参する恥辱を受け申した。馬は榊原の仇にござる」
 そう言って仁之介は体を半身に構え、右手を柄へと添えた。仁之介の視線は真っ直ぐ馬の妖魔を射抜く。その気当たりを感じたのか馬の妖魔は胸の前で両の蹄を火花が散るほど強く打ち鳴らして応える。仁之介は刀の鯉口を切り、徐々に間合いを詰めていきながら勝往から離れ誘いをかける。それに応じた馬の妖魔も同じく離れ、一対一の対決の場を取った。
「我が名は榊原仁之介、これより貴殿の首級を頂戴仕る」
 人間の言語を理解するのか分からぬ妖魔だが、馬の妖魔は赤い目にぎらりと凶暴な光を灯した。
 仁之介はさほど間を開けずに自ら踏み込んで仕掛けた。その踏み込みは草鞋とは思えぬほど鋭く、馬の妖魔との距離は瞬く間に詰まり切る。仁之介の速さが予想外だったのか、馬の妖魔は構えていたはずの蹄より内側へ仁之介の侵入を許してしまった。一拍遅れ仁之介を捉える赤い目、そこに映った仁之介は右腕を脱力させていた。仁之介の構えは典型的な抜刀術である。その圧倒的な剣速のため、懐へ入り込まれた時点でもはや勝敗は決していた。馬の妖魔は咄嗟に両の蹄で仁之介の頭を挟み込もうとするも、人間の頭蓋など豆腐のように砕いてしまうであろうその一撃も手遅れだった。既に斬り終えた事を示す鍔鳴りが辺りに響いていたからである。
 馬の妖魔は両肘を浮かせたままの姿勢で硬直していた。仁之介がゆっくりと残身を解き柄から右手を離すと、思い出したように馬の妖魔の首が前方へ滑り落ちた。
「良き勝負であった」
 仁之介はそのままくるりと踵を返し、何気なく勝往の方へ向き直った。しかし、
「仁之介殿ッ!」
 突如、雷鳴のような勝往の怒号が鳴り響いた。その次の息をつくよりも先に、仁之介は背中に強い衝撃を受けた。両足が地面を離れ、背骨から頭の先まで雷のような激痛が走る。顔から滑り込むように地面へ落ちる仁之介。背中には刺すような激痛、思わず咳き込んだ口元からは赤い色が滲み出した。仁之介は気力で痛みを捻じ伏せてふらつきながら立ち上がる。振り返った先には、首を刎ねたはずの馬の妖魔がこちらを向いたまま何事も無かったかのように憮然と構えていた。
「不覚……ッ!」
 仁之介は再び半身に構え右手を柄へと添える。しかし手は激痛のあまり震えが止まらず、平素のように柄へ添える事が出来ない。内臓にも傷がついたのか、喉が血でいがらっぽく呼吸が苦しい。そのせいで呼吸も満足に行えず、ただ構えているだけでも体力が奪われてしまう。
 妖魔の並外れた生命力を見くびっていた。仁之介は己の失態で奥歯を噛み締める。傷の程度からして、すぐに動く事は困難である。しばらく防戦を続けて回復を待つか、敢えて打って出るか。しかし、先駆けこそが武士の誉れ、退く事も守る事も己が本懐足り得ない。
 仁之介は右手をぎゅっと握り込み震えが止まった事を確かめると、半身の構えのまま馬の妖魔へ立ち向かっていった。