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 江戸城の本丸には、本丸御殿とは別に将軍が家臣と謁見するための御殿が建てられている。通常の謁見は大広間で行うのだが、天下平定以前より徳川家へ仕えている古参の家臣に限っては此処で行うのが通例となっていた。徳川家に仕える旗本は凡そ八千と言われているが古参の旗本はほんの一握り、徳川初代将軍が特に家臣との信頼関係を重視していたという逸話がそもそもの由来となっている。
 詰所は一つ、他には廊下と支度の間が二つきりしかないそこには、大広間に継ぐ広さを持つ謁見の広間があった。一番奥の上座に鎮座するのは、現徳川将軍の徳川紀家。歳はまだ若く体格も中肉中背と頼りない背格好に見られる事もしばしばだが、備える将器と威厳は初代に継ぐほどととも評されており、先代より将軍職を継いで以来は噂に違わぬ善政を敷いている。
 紀家の前方へ二列に向かい合うように並ぶのは、古くから徳川家に仕える旗本家臣団である。いずれも戦国時代より続く武功でのし上った武将ばかりで、天下平定後もたゆまなく武芸を磨き続けている武断派である。その傾向は大名に格上げされた旗本にも続いており、これら屈強な家臣達によって徳川家は支えられている。中でも譜代大名である、本多、井伊、榊原、酒井の四大名は徳川四傑と謳われるほど特に秀で、代々重ねてきた数多くの武功から待遇も石高も別格、旗本達の頂点に立つような存在である。
「その方ら、此度も良く働いてくれた。おかげで江戸城も無事に守り通すことが出来た。大儀であったな」
 紀家は家臣達を一望しながら労いの言葉をかける。家臣達は畏まり頭を下げるものの、いずれも非常に満足げな表情を浮かべていた。昨夜から一睡もせず戦い続け体も疲れ切っているはずなのだが、それを感じさせないほど充実しているのである。
「しかし、なんとも奇怪なものよ。これで五度目ではないか」
「いずれも望月の夜八つ時。昔から妖が現れるのもこの頃、何らかの関係があるのではござらぬか?」
「ならば、何故今なのだ? 妖魔など遥か昔からいたではないか。にも関わらず、かような大軍勢を率いて城を襲うなど聞いたことがござらぬ」
 現在、徳川家は未知の侵略を受けている真っ最中だった。天下平定した日ノ本には余す所無く徳川家の威光が届いているため、外様大名同士の小競り合いは時折あるものの、徳川家そのものへ兵を起こす事など有り得ない時世である。そんな中で起こった突然の江戸城襲撃、それがあの妖魔の軍団である。
 最初に襲撃を受けた日は、他国の侵略などまるで想定していなかった江戸城は混乱を来たし緒戦を誤ってしまった。徳川四傑の中で唯一城の敷地内に屋敷を構えていた本多家はこの事態を受けてすぐさま出兵、本多勝往とその手勢により妖魔軍を駆逐、江戸城は多大な被害を追いながらも妖魔の撃退に成功した。
 次の望月の晩、江戸城には急遽呼び寄せられた各地の旗本家臣団が集結し、万全の布陣を整えて妖魔の軍勢を迎え撃った。今度の妖魔軍は前回とは比べ物にならない数の大軍ではあったが、徳川四傑を初めとする旗本家臣団の目覚しい働きによって撃退に成功する。その後も妖魔は決まって望月の夜に江戸城を襲撃した。回を重ねるごとにその軍勢は莫大に膨れ上がっていったが、屈強な旗本家臣団によってことごとく撃退されていた。
 妖魔軍について分かっている事はほとんど無い。望月の晩にどこからともなく現れ、江戸城の本丸御殿に向けて侵攻すること。朝になれば跡形も無く消え去ってしまうこと。そして江戸の町には全く手をかけないため、これまでの死傷者は全て応戦した兵だけであることだ。
「妖魔共にも何か目的があるという事であろう。いずれにしても、我ら徳川家家臣団がいれば良い事。本丸には一歩たりとも入れさせぬ」
「うむ、勝往殿の申す通りじゃ。我らがいる限り、上様には一歩たりとも近づけさせぬ」
 本多勝往は徳川家に仕える家臣の中で最も屈強な武士である。その豪腕は四貫の大槍を軽々と振り回し、生来の頑強な体躯は如何なる敵を前にも揺るがない。この神懸った剛勇は本多家代々のもので、その名を継ぐ勝往もまた徳川の守護神と評されている。
「妖魔共の動向には重々注意が必要だ。今後も皆の活躍に期待しておるぞ。ところで、勝往。お主は此度の働きも実に見事であった。またしても随分と首級を挙げたそうだな。此度は幾つだ?」
「九つにございます」
 そう答える勝往の言葉に自然と感嘆の溜息が漏れた。彼らも幾つか首級を挙げてはいるのだが、せいぜい三つか四つ、それも勝往のように単独で戦った訳ではないからだ。たとえ妖魔と言えど、武将ともなれば実力は段違いになる。狡猾な知略だけでなく妖術も用いるため、彼らの知る戦の常識にない戦いを強いられてしまう。そんな妖魔をたった一人で打ち倒す勝往の武勇には、ただ純粋に驚嘆する他無い。
「さすがは本多の血筋、徳川の守護神よ。ところで、仁之介の姿が見えぬがどうした? 榊原は市中の見回りをしていたはずだが」
「仁之介殿は昨夜の戦にて負傷した為、今は柳の間にて治療を受けております。おそらく昼には起き上がれるかと」
 部屋の隅から小さな失笑が漏れた。他の家臣もまた一様に笑みを押し殺した複雑な表情である。勝往の耳にもそれは聞こえていたが何も言わず、ただじっと口を結び黙っていた。彼らの失笑の理由は、この妖魔軍との戦にあった。仁之介は二度目の戦から毎回出兵していたのだが、いずれも妖魔と交戦しているにも関わらず未だ目立った武功は無く、しかも戦が終われば決まって柳の間へと運び込まれているからである。武士にとって敗北とは死と同義、太平の世となってからその価値観は緩みはしたものの、少なくとも敵より先に倒れ生きている事は恥とする他無い。その生き恥を、仁之介はこれで四度も繰り返したのである。
「榊原の武勇も途絶えて三代続く、か。天下の徳川四傑、榊原の名は考え直さねばなるまいか」
 半ば呆れた溜息をつく紀家。勝往はただじっと黙り込んだまま、静かに目を伏せるだけだった。