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「肺が潰れておるようじゃ。常人ならばとうに死んでいる傷ですぞ」
 白衣の老人は溜息混じりに後片付けを始めた。並んでいるのは南蛮の医療器具と使いかけの包帯、そして真っ赤に染まった綿。まるで重傷者に気休め程度の手当てを施したような状況だったが、老人の前に横たわる青年は時折咳き込むものの生き生きとした血色の良い顔をしている。
「かたじけのうござる、安甚殿」
「それにしても、何故具足もつけずに出なすった。昨夜は厳戒令が出ておったはずじゃが」
「拙者、窮屈な甲冑を身に着けていては刀が思うよう抜けぬが故」
「榊原殿は市中見回り役を使っていたのではありませぬか? 手勢も放り出し御一人で城に向かうなど、榊原の嫡男としてあるまじき行為ですぞ」
「敵とあらば見過ごせなんだ、まことに面目無い」
 仁之介は三の丸の一角にある柳の間にて、徳川家お抱えの医師団による治療を受けていた。柳の間は病人や負傷者の治療を行うための部屋である。さすがに昨夜の戦が終わっての今日であるため、柳の間には何人もの負傷者の姿があった。そんな柳の間の一番奥にある四畳ほどの離れに隔離されるような形で仁之介はひっそりと治療を受けていた。それは、仮にも武勇を誇る大名であるはずの榊原が何の武功も無く怪我の治療を受けている事を他の家臣に知られぬように、という安甚の配慮からだった。
「御免、仁之介殿はこちらか?」
 襖の向こう側から耳慣れた声が聞こえて来た。安甚はそっと襖を開け顔を確認すると、手早くその者を中へと招き入れる。
「仁之介殿、具合は如何か?」
「おお、勝往殿。心配召されるな。拙者の場合、半日もあれば元通りでござる」
「そうであったな。まずは此度も無事に妖魔を撃退出来た事を喜ぶとしよう」
 勝往は生来の大きな体で覗き込むように仁之介を見舞う。
「浮かぬ表情だな。傷が痛むか?」
「此度もまた武功を挙げられぬが故。また詰めを見誤り、敵より先に倒れ申した。父上に合わせる顔がありませぬ」
「そう気に病むものではない。焦りは禁物でござる。勝負は時の運よ」
「しかし、拙者も勝往殿のように武功を挙げねば、榊原の体裁にも関わり申す」
「功は後先でも数でもない、その大きさを競うものでござる。まずは体を休む事に専念し次の戦に備えられよ」
 仁之介と勝往は生まれ年も同じ、幼馴染の間柄だった。本多家の本屋敷が北の丸にあるため、仁之介は昔から江戸城へ父親に連れられるたびに勝往と遊んでいた。武芸の習い始めも同じで、幼少の頃はよく競い合うように腕を磨いている。大名の嫡男である仁之介にとっては数少ない、気心の知れた朋友である。
「入りますよ」
 その時だった。襖の外から新たな来客の声が聞こえて来る。思わず一同が振り向くや否や、迎え入れるよりも先に襖が外側から開かれる。襖の向こう側にいたのは、まだあどけなさの残る一人の少女だった。しかし年齢にそぐわぬ落ち着きと気品から、それ以上に成熟した女性にも錯覚させられる。
 勝往は座を正し、両の拳を畳みにつけて深々と頭を下げる。少女は一言、良い、と話し直らせる。その後ろの襖を閉めた付きの女性は、そのまがぴったりと少女の背後に立ち位置を取った。
「神弥様、わざわざこのような所まで起こし下さるとは」
「ここ三の丸までは、たった廊下四つですから。それよりも仁之介、傷の具合は如何ですか?」
「勿体無いお言葉です。この程度の傷、すぐに治り申す。姫様の御心遣いが何よりの名薬でございます」
 そう微笑んだ仁之介だったが、少女の後ろから降り注ぐ冷たい視線にすぐに表情を引き締めた。付人は長身の女性で齢は少女より一回りほど離れていた。少女の背後に影のようにぴたりと付き、まるで戦場にいるかのような鋭い眼差しで常に周囲を警戒するなど、彼女だけは纏う空気が明らかに異なっている。
 この少女は徳川神弥、将軍徳川紀家の実子である。今年で十三になる神弥は、既に将軍家の血族として成熟した品格を持ち合わせていた。隔たり無く家臣を労わる優しさの持ち主で、誰からも愛され多くの人徳があった。おおよそ神弥を嫌う人間など少なくとも江戸界隈には存在しない、とまで言われるほどだ。
 紀家の正室だった乙弥は神弥を産んで間も無く他界している。紀家は心痛のあまりその後に側室を取らなかったため現在の実子は神弥一人、後継者は御三家の男子を養子に取るのではと噂されている。余談だが、乙弥は紀家より格別の寵愛を受けていた。そんな乙弥が逝去した時の紀家の気落ちは相当のものだったが、以後は亡き乙弥に生き写しである神弥を溺愛するようになっている。
「そうそう、二人とも。今日は良い物がありますのよ」
 ふと神弥が袂から取り出したのは小さな巾着袋だった。そこから取り出したのは薄紅色の金平糖だった。城下町で評判の店で売られているものである。使いを出させ取り寄せたものなのだろう。
「勝往は此度も活躍されたそうですね。これは私からです」
「ありがとうございます」
 勝往は深々と一礼し両の手のひらを差し出すと、神弥はそこへ金平糖を乗せる。勝往はそれを一息に口へ放り込むと、微かな桜の香気が鼻を抜けた。どうやらこれが隠し味となっているようである。
「仁之介も、これからも精進して下さいね」
 神弥は金平糖を起き上がれない仁之介の口元へ自ら伸ばした。しかし、
「お止め下さい」
 不意に背後の女性が神弥の手を取り止めた。
「信賞必罰は武士の誉れ、功無き者に恩賞を与えるのは他の家臣へ示しがつきませぬ」
「このぐらいのこと、よろしいではありませんか。ただの戯れですよ」
「榊原の男児に情けは無用にございます」
「本当に華虎は厳しいのですね」
 神弥は渋々金平糖を巾着の中へ戻した。女性は無言のまま表情も無く深々と一礼する。
「さあ、神弥様。そろそろ論語のお時間にございます」
「もうそのような時間ですか。遅れてはいけませんね。それではみなさん、ごきげんよう」
 その去り際、長身の女性がじろりと仁之介を見下ろしながら睨みつけた。首を絞められるような窒息感を覚えた仁之介は、思わず露骨に視線を外してしまう。
「仁之介、これ以上榊原の名に泥を塗るなと言った私の言葉は忘れたか?」
「滅相も御座いませぬ、姉上。拙者が未熟であるが故の失態、その責は重々承知しております」
「しばらく貴様の相手をしてやらなんだ、少々甘やかし過ぎたようだな。いずれ稽古をつけるが故、覚悟しておくことだ」
 言い残した言葉と彼女の凄味に、仁之介は布団の中で背筋に冷たいものを感じ小さく震えた。しかし動揺を見せれば、それすらも咎められるため、奥歯を噛み締めただじっと平静を装う。呼吸の自由を奪う緊張感は華虎の足音が聞こえなくなるまで続いた。当事者ではない勝往と安甚も同じように緊張感に苛まれ、手のひらや額にはふつふつと脂汗が浮き出ている。ようやく気配が完全に消えた時、一同は肩の重荷を下ろしたように深く溜息をついた。本来ならば主君の実子である神弥にこそ緊張感を持つべきなのだが、どうしても先に付人である華虎に圧倒されてしまうのである。
 榊原華虎は仁之介の実姉である。榊原の仁王と評されるほど武芸に秀でた女傑で、その武勇と厳格な人柄を紀家に買われ神弥の護衛兼御付人を務めている。仁之介との力関係は見ての通りで、仁之介が華虎に逆らったのは幼少の頃一度きりであった。
「華虎殿は相変わらず、刃のように凛としておられる。お主には風当たりが強いが、それさえなければ良き器量なのだが」
「姉上は御自分と身内には厳しい方である故、致し方ありませぬ」
「お主の忍耐強さにはつくづく感服する」