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 正午になり、傷の癒えた仁之介は将軍との謁見のため奏者番に取次ぎを求めたものの、やはり多忙のためそれは叶わなかった。もっとも、大した戦功もあげられず旗本との謁見に参加出来なかった身としてはとても主君に合わせる顔など無く、そういう意味で仁之介はむしろ御目通りが叶わなかった事を良しとし、そのまま北の丸へと向かった。
 江戸城の北の丸には、将軍家に仕える重臣や譜代大名が江戸へ常勤する際の住居が建ち並んでいる。榊原家もまた譜代であるため、嫡男である仁之介は領地である上州と江戸とを頻繁に行き来している。江戸にいる間はこの北の丸にある別宅で生活をしていた。
「おかえりなさいませ」
 屋敷の門を潜ると、偶然そこに居合わせた家臣の一人に声をかけられた。
「うむ、只今戻った。皆は無事か?」
「はい。皆、仁之介様がお戻りになるのを心待ちにしておりました。さあ、お早く広間の方へ」
 仁之介は三度目の妖魔の襲撃の際、家臣には今後自分が負傷したとしても見舞いに来ないよう言い渡している。そのため家臣は今回も仁之介の負傷の度合いを知らず屋敷にて不安に心を痛めていた。本来ならばすぐにでも駆けつけるところだが、彼らには仁之介以上に強い力によって留め立てを受けているのが実際だ。つまるところ、その主は仁之介の姉の華虎である。華虎が仁之介の見舞いを禁じているのだ。戦で醜態を晒した人間を見舞うなど、身内の恥を宣伝するのに等しいという考えからである。
 広間に入るとそこには、榊原家に仕える家臣の面々が落ち着き無い様子で集まっていた。入って来た仁之介の姿に、口々に安堵の溜め息を漏らす。
「おお、仁之介様! 御無事で!」
「なに、皆も知っているように拙者は不死の身である故。それよりも、また心配をかけてしまったな」
「勿体無いお言葉です」
 榊原家は本多家に次ぐ戦国大名である。代々榊原家に仕えてきた武士は皆、幼少の頃より常人ならぬ才を見せた豪傑ばかり。一度戦場に立てば、
勇猛果敢に戦い数多くの武功をあげてきた。そんな榊原家の嫡男である仁之介は、妖魔との戦において立て続けに不甲斐なさを露呈している。本来ならば家臣からの突き上げがあってもおかしくはないのだが、華虎の常軌を逸した叱責に晒される仁之介を見ているためか榊原家において仁之介を批難する者は存在しなかった。
「それよりも聞いて貰いたい。此度も拙者は不覚を取ってしまったのだが、その事について姉上から近々咎め立てがありそうなのだ」
「なんと華虎様が……。して、この屋敷へ直接出向かれるのでしょうか?」
「おそらくは。よって皆には今の内に心して貰いたい」
 一同は口を真一文字に結び押し黙った。
 かつて華虎は榊原家の中で最も発言力の強い人物だった。それは単純に、誰も華虎には武芸で勝るものがいなかったからに他ならない。この江戸を探しても華虎と対等に並べる武芸者はほんの一握り、無論いずれも男の武芸者ばかりである。そんな華虎が神弥の従者に任命されて江戸城へ入った時は、安堵の溜息をついた人間は決して少なくは無かった。
 榊原家は二代続けて弱卒を輩出してしまったため、仁之介の代に込められた期待は非常に重い。それを知ってか、華虎は幼少の頃より仁之介を徹底的に修練に修練を重ねさせた。そしてようやくその成果を存分に発揮出来る機会、妖魔との戦が訪れたのだが、これまでの戦功は皆無。当然だが、華虎の心中が穏やかざるようになるのも無理は無い。ある意味では当主よりも発言力を持つ華虎である、出来れば関わり合いになりたくないと考えるのは仁之介だけでなくほとんどの家臣の総意だ。けれど華虎は決して筋の通らぬ発言もしないため、拒絶するにもこちらが筋を通す事が出来ないでいるのだった。
「さて、皆には昨夜も多くの働きをして貰った故、今日はこれまでといたそう。各自、体を休めて次の望月まで英気を養うように。拙者も今日はゆっくりと休むといたす。明日からおちおち休めぬようになるかもしれぬしな」
 仁之介はわざと冗談めいて言ったが、家臣は皆引きつった苦笑いを浮かべて頷くだけだった。とても冗談とは受け取れなかったからである。