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 昼ハツ半に差し掛かる頃、家臣との謁見を終えた仁之介は供をつけず一人江戸城下町へ繰り出した。
 仁之介は江戸に限らず一人で行動する事が多い。それは榊原家の嫡男という重圧から逃れる意図ではなく、幼少より人付き合いよりも剣術や武者修行に明け暮れてきたせいか一人で過ごす方が仁之介にとって自然であるからである。本来ならば指折りの石高を誇る榊原の嫡男が勝手に出歩くなど自粛するのが当然である。無用のいざこざを避けるため、着物も出来る限り質素にし下級武士を装って出かけている。
 歩き慣れた城下町を特に当ても無く歩く仁之介は、ふと視線を通りの向こう側へ止めた。
「蕎麦、か……」
 そこには一軒の蕎麦屋があった。鰹節の良い香りが鼻腔をくすぐる。一杯何文で食べさせる質素な蕎麦屋であるが、仁之介はこういった店を良く好んで入っていた。幼少より華虎から武士のあるべき姿を強要されてきたためか、それに逆らって町人らしい振る舞いをする事が一つの気晴らしになっているのである。
 丁度小腹が空いていた仁之介は暖簾を潜ってかけそばを注文する。特に重傷を負った時は腹が極端に空く。体が栄養を欲しがっているのだろうと仁之介は考えていた。昨夜自分が負った傷は常人ならば致命傷に相当する。やはり鎧を纏うべきだろうか、戦に出て以来その手の悩みは尽きない。
 食事を終え仁之介は再びぶらりと歩き出した。登城の無い日は武芸の修練以外にする事が無く、大名という身分は意外と退屈なものである。昨夜の戦ぶりを不甲斐なく思うなら暇を見つけては武芸を磨くべきなのだが、今の自分に足りないものは何か別なものであるという引っかかりがあり、なかなか気乗りしない。問題を先延ばしにしているだけかもしれないが、今は木刀すら持つ気にはなれなかった。
「む……?」
 ふと仁之介の視線が通り沿いの一点に注がれた。そこには一軒の甘味処があるのだが、店の前の長椅子に見覚えのある人影を見つけた。
 あれは……姉上?
 軒先の腰掛に座り小さな器をつついているのは華虎だった。華虎は神弥の身辺を警護しているため、そう身勝手な行動を取る事は出来ない筈。にも関わらず此処にいるのは何故だろうか。
 疑問に思う仁之介だったが、ひとまず様子を伺おうと距離を取る事にした。しかし、
「仁之介、隠れなくとも良い」
 不意に華虎の声が飛んで来た。既に見つかっていたのである。仕方なく仁之介は隠れる事を止め、姉の元へ重い足取りで向かう。
「姉上、何故このような所へ? 御公務はよろしいのですか?」
「貴様も人の事が言えた立場か? 遊んでいる暇はないはずだぞ」
「拙者はともかく、姉上は神弥様の警護を……」
 その時だった。不意に仁之介は驚くべきものを目にしてしまい、思わず息を飲んだ。
 華虎の隣には一人の小柄な人間が座っていた。頭から薄絹を被り、南蛮製の外套を着込んでいる。初めはただの相席と思っていたが、良く見ればそれは仁之介の良く知る人物だったのだ。
「こんにちは、仁之介。今日は良い天気ですね」
 仁之介は思わずその場に硬直してしまった。それはあろうことか、大奥にいるはずの神弥だったからである。
「あ、姉上? これは一体如何なる沙汰で」
「声が大きいぞ仁之介。お忍びである。御嬢様とお呼びせよ」
 睨み付けられ、自然と声を静める。しかしそれは本来立場が逆である。今咎め立てるのはむしろ自分の方であると仁之介は声を潜めながら続けた。
「幾ら姉上といえど、このような無体はなりませぬぞ。勝手に外へお連れ出しになるとは。上様にこの事が知られましたら、首を刎ねられるだけでは済みませぬ」
「私が仕えているのは御嬢様だ。御嬢様の命令とあらば遂行するのみ。他の者など一切知らぬ」
「それは暴論というものでは……」
 困り果てた仁之介は神弥の方へ視線を移す。神弥はビードロの珍しい器を手に、愛でる様に目を細め小匙でつついている。
 神弥は格別に寵愛される紀家唯一の実子、平時は大奥へ置き城のどこを歩くにも必ず華虎が付き添わなければならない決まりになっている。城から出るなど相当な理由が無ければ紀家が許すはずも無く、無断で連れ出すなどは言語道断。主君に対する重大な裏切り行為に他ならない。
「か……御嬢様、この事が御父上に知られては事ですぞ。すぐさまお戻り下さいませ」
「いつもの事ですもの。それに華虎がおりますから大丈夫ですよ」
 神弥の様子からして、どうやら城を抜け出すのは今日が初めてではないらしい。大方、神弥が華虎をそそのかし城の外へ抜け出しているのだろう。無論、華虎は紀家よりも神弥の命令に優先的に従う。紀家の制止などさほどの抑止力にはならないのだ。
「しかし何故このような事をなさいますか。甘味など、家臣にお申し付け下さればただちにお届けにあがりましょうに」
「ここまで足を運ぶ事にこそ意味があるのですよ。舌だけでなく、雰囲気も一緒に楽しむことが風流なのです」
 神弥はにこやかに微笑みながら白玉をすくった。
 今ひとつ神弥の言う風流の基準が分からなかったものの、下級武士の格好で城下町を一人出歩く自分もあまり大差はない。そう思った仁之介は次第に語彙を窄め、最後に曖昧な返事をするに留まった。
「ならば、せめてお戻りになるまで拙者も付き添いいたします故」
「それは私の役目だ、お前の出る幕ではない。お前は修練の一つでもしていろ。少しは勝往殿を見習うのだ。また無様な戦ぶりを晒すつもりか」
 華虎の物言いが酷なのは今に始まった事ではないが、こればかりはさすがに仁之介も胸を痛めた。同い年の勝往と比較される事が最も辛いのである。仁之介は見る間に額へ皺を寄せ、喉に何かが詰まったような苦い表情を浮かべる。
「華虎、あまり虐げるものではありませんよ。人の心は誰しもが傷つきやすいものです」
「榊原の男児に若輩者はおりませぬ故、この程度など茶飯事でございます。武士とはかくして剛に生まれるもの。身が頑健なれば心も強健」
 武士道とは程遠い神弥は理解出来ず不思議そうに首を傾げる。しかし今の興味は左手の器にあるらしく、すぐに興味はそれた。神弥はよほどその甘味に御執心と見える。
「ねえ、華虎。今日はもう一軒回りたいのだけど、良いかしら? 京橋に新しい南蛮の菓子が入荷したそうなの」
「無論で御座います。私も南蛮菓子には興味があります故。土産にも幾つか買って戻りましょう」
 女性同士の楽しげな会話。そこに仁之介の居場所はまるで見つからず、こうして食い下がるよりも長居せず立ち去ったほうが良さそうである。
「それでは、拙者はこれにて御免。くれぐれもお気をつけ下さいませ」
 そして仁之介は逃げ出すようにその場から離れた。
 考えてみれば、ここで華虎に見つかってしまった事は自分にとっての痛手である。修練もせずに町を遊び回っていたという、華虎に咎めを受ける理由を一つ与えてしまった事になるからだ。