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 夕刻まで時間もあり、仁之介は本多家を訪れた。
 本多家は北の丸に本家を構える、徳川家臣の中では異質の大名である。領地は上総にあるものの、徳川家に危機が訪れた時には真っ先に駆けつけられるよう敢えて江戸に住み込んでいるのである。一番最初に妖魔の襲撃を受けた際、直ちに兵を挙げて応戦出来たのはそのためである。
 本多家の屋敷は本家という名目を持つだけあり、榊原の別宅よりも遥かに広く大きな建物である。しかし譜代大名という身分を考えれば、城へ住んでいないというだけで遥かに質素な印象を受ける。
 門の前には六尺棒を構えた二人の厳しい門番が立ちはだかっている。正門よりも物々しい雰囲気である。徳川の守護神という異名を持つ本多家ならではの警備だ。
「失礼、勝往殿はおられるか?」
 すると門番はすぐさま六尺棒を収めて一礼し仁之介を中へと丁重に促した。仁之介は勝往とは幼少からの馴染みであるため、本多家の邸宅にも何度も通っている事から本多家の家臣も顔をよく覚えているのだ。
 門を潜り真っ直ぐ屋敷へ向かって歩く仁之介。幼い頃から通っているため、本多家の中は我が家のように知っていて足取りに迷いは無い。そのまま裏庭へ回ると、そこでは数多くの侍が修練に明け暮れていた。木刀や六尺棒で本格的に打ち合う流儀はさほど珍しいものではなかったが、本多家のそれは旗本の中でも随一の厳しさと言われている。本多家の家臣が際立って屈強揃いの理由はこれにあった。
「おお、仁之介殿!」
 と、不意に侍達の中から仁之介を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、勝往がこちらへ駆けて来る姿が見えた。その人並み外れた巨躯は遠目にも一目瞭然である。
「傷はもうよろしいのか?」
「あれぐらいでいつまでも寝てはおられぬさ」
「相変わらずのようだ。結構」
 勝往に連れられ屋敷の縁側へ並んで腰掛ける。どこからともなく現れた小姓が運んで来た茶を受け取り、ゆっくりとすする。昨夜の戦で折られた奥歯も完治しており痛みは感じなかったものの、くすぐられるような鈍い感触が未だ残っている。
「仁之介殿は上州へ戻られるのか?」
「いえ、拙者は当分北の丸の別宅へおります。次の襲撃をこのまま江戸で待つつもりでござる」
「左様か。ならばしばらくはゆっくり出来るであろう。仁之介殿ともしばらく酒を酌み交わしておらぬ」
「拙者、馴染みの蔵元がある故、また持って来させましょう」
 茶をすすり香の物を茶請けに摘む。勝往共々、甘味は不得手であるため、茶を飲む時も茶菓子を口にする事は無い。
「本日は如何な要件だ? 息抜きならば歓迎いたすが、そのような表情でただの世話話に来たという訳でもあるまい」
「うむ……一つ聞きたい事があり申す」
 声調を落とした仁之介は、視線を合わさぬまま残りの茶を一気に飲み干した。
「上様は榊原について何か仰せられただろうか、と。少々気掛かりでな」
 そう訊ねる仁之介に、勝往は唇を結び僅かに眉間へ皺を寄せた。
 仁之介にはその表情だけで十分だった。今回の戦において自分の評価がどの程度のものかは、言葉を選ぼうとする勝往の表情だけで容易に想像が付く。
「気に病むな。雑音は捨て置けばいい」
「……かたじけない」
 勝往は茶を飲み干すと徐に立ち上がりどこかへ行ってしまった。しばらくして戻って来た勝往の手には一振りと木刀と六尺棒があった。勝往は木刀を仁之介へと差し出す。
「せっかく参られたのだ。久々に手合わせ願いたい」
「拙者は今朝まで重傷だったのだがのう」
「今は平気でござろうに。体を動かせば、雑念は自然と晴れるものよ」
 仁之介は苦笑いしながら木刀を受け取ると、腰の刀を置いた。
 二人は裏庭の空いた場所へ向かいそこで間合いを取りながら相対する。仁之介は木刀を腰に溜め居合いの構えを取る。対する勝往は六尺棒を頭上に構え、じりじりと間合いを詰めて行く。
 いつの間にか他の侍達は手を止め二人の試合を見物し始めた。双方とも人並み外れた達人であり、たとえ模擬戦とは言っても立ち会うからには侍として興味を抱かずにはいられないのだ。
「ふん!」
 先に仕掛けたのは勝往だった。仁之介の間合いから一歩外へ出た位置より、長さの利を生かし六尺棒を振り下ろして来る。しかし攻撃の機を伺っていた仁之介はすぐさまそれに反応し、振り切るよりも先に勝往の懐へ踏み込んだ。間合いに捉えた瞬間、仁之介は木刀を勝往の脇腹へと繰り出した。だが、それと同時仁之介の左肩に衝撃が走り、体位を崩してしまって木刀がぶれる。左肩を打ったのは六尺棒の先端だった。勝往は初めからこうなる事を見越し予め短く握っていたのである。
 木刀は勝往に当たるものの、それは全くと言っていいほど威力が通っていない。再度仕掛けるべく間合いを取ろうと踵へ力を込めると、それよりも先に勝往から後ろへと飛び退いた。すかさず抜刀の構えを取り直し、柄に右手を添える。そのまま勝往が構えるよりも先に足を踏み出し、同時に右腕を脱力させた。勝往は構えも粗略のまますかさず踏み込むものの、仁之介が抜く方が早い。勝往は繰り出した仁之介の木刀をあえて左腕だけで受け止めると、右手で六尺棒を操り前方一帯を薙ぎ払う。仁之介も同じように左腕で受け止めるが、腕力や体重差からあっさりと跳ね飛ばされてしまった。
 二人は飽く事も無く何度も打ち合った。元々手の内はお互い知り尽くしているため、滅多な事で勝負はつかない。しかし守りに入ろうともしないため、兎角互いが互いを徹底的に打つ形になった。息つく暇も惜しみながら半刻近く打ち合った二人は、ようやく疲れ果てて切り良く止めた。互いに全身汗だくになり肩で呼吸をしている。幾ら木製の武具であろうと、そこまで打ち合えば全身は打撲傷で立っていられなくなるのが普通だが、仁之介は打たれた傍から傷は癒え、勝往は鋼のような頑強さを持っているため、目立った外傷は見受けられない。
「真剣ならば、最初で勝負が決まっていた所でござる。人の胴など一断ちなれば」
「拙者の槍は柄ですら骨を砕く。真剣ならば勝っていたのは我の方である」
「骨を砕いたところで勝敗には関係ござらぬ。生を断ってこその勝敗ぞ」
「ほう、お主は首から下の骨が無くとも我に勝てると申すか」
 幼稚な言い合いにひとしきり興じ、顔を見合わせたまま疲労の溜息と笑みを同時に浮かべる。二人とも普段はこれほど充実した打ち合いの出来る相手がいない。そのため全力を出せる事に喜びすら感じられた。
「勝往殿は戦上手なればこそ、あのように戦功を挙げられるのではあるまいか。誰ぞか兵法を学ばれておるのか?」
「いや、仁之介殿とさほど変わりはせぬよ。戦とは気迫と武運で決まるもの。仁之介殿は武運に恵まれぬのであろう」
「かつて武運の事を姉上に相談した事があり申す。拙者の武運は拙いのではないかと」
「して、何と?」
「軟弱者と罵られ、散々に打たれ申した」
 やはりな、と勝往は苦笑い。
「姉上は宗旨も無ければ怪力も信じぬ方が故。これまでも己と周囲の助力で万事を成就させてきた自負があるのでござろう。いや、拙者こそそういう気概を持つべきなのか」
 そう自らを笑う仁之介だったが、そこに自虐の色は見当たらなかった。むしろ、何かに解き放たれたかのような晴れやかな表情である。
「ところで勝往殿、一つお願いがあり申す」
「何じゃ?」
「実は近々、姉上が榊原の別宅へ参られるようなのじゃ。家臣共々震えておる。そこで、もしも参られた時は勝往殿も来て頂けぬかと。それとなく押さえて欲しいのじゃ。流石の姉上も勝往殿を打ち倒すのは骨と思うのだ」
 それはつまり盾になれという事ではないか。
 そう言いかけた勝往だったが、思う所があってか急に声調を変え口を開く。
「承知した、ありがたくお引き受けいたそう。拙者が華虎殿を説得いたすとしよう」
 快諾を得た仁之介は口元に笑みを浮かべるものの、すぐに不思議そうに小首を傾げた。
「ありがたい? 勝往殿が皮肉とは珍しいのう。確かに姉上の相手など貧乏籤ではあるが」
「い、いや、皮肉ではござらぬ。勘ぐり過ぎだ」
「ではその心は?」
「うむ……とりあえず仁之介殿、しばし休憩といたそう」