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 その日は華虎がやって来る様子はなく、仁之介は安堵しながら床についた。
 普段は夢を見ない仁之介だったが、その晩だけは何故か非常に長く生々しい夢を見た。戦での疲れが残っているせいか、昼間の勝往との手合わせの興奮が残っているのか。これほど明確に夢を覚えているのは非常に珍しい事で、仁之介はまるで現実の事のように記憶していた。
 それはまだ仁之介が元服するより以前の幼少の頃だった。
 仁之介は真っ暗な闇に包まれた洞穴をひたすら奥に向かって進んでいた。右手には提灯、左手は腰に差した刀にそっと添え、背中には僅かな手荷物の入った風呂敷を背負っている。
 分岐も無く単調な道程だったが、両手を左右に目一杯伸ばしても届かないほど広く、天井も高さが正確に分からないほど高いため、洞穴の中とは思えない開放感があり息苦しさは感じなかった。地下水が染み出しているため足元は滑りやすく湿気が充満してはいたものの、それが気にならなければただの夜道を歩いているのとほぼ同じ感覚である。
 歩いていた道はやがて広い空洞へと出た。表面の溶けた石灰岩は滑らかな曲面を描き、足元近くで深く切り立った崖下には地底湖が妖しく青緑に輝いている。不思議な事に空洞内の方が提灯よりも明るく、もはや提灯は不要だった。一条の日光も差さぬこの場所のどこに光源があるのかと、普通の感性ならば真っ先に疑問に思うのだが、仁之介はさほど気に留める様子も無く更に奥へと進んでいった。
 どれだけ奥までやって来たのか、果たして出口までの道順は正確に辿れるのか。これだけ非現実的な空間を見せられれば抱かずにはいられない不安の数は数え切れない。しかし仁之介は全くと言って良いほど臆していなかった。むしろ幻想的な催しとして楽しむ余裕すらあった。豪胆と呼ぶべきなのか、単に危機意識が欠けているのか。もっとも、危機感の強い慎重な人間は命綱も無しにこのような得体の知れぬ洞穴には入りはしないのだが。
 更に奥へ迷わず進んでいく仁之介。既に幻想的な風景になど興味は失せ、ひたすら奥へと進む事に専念していた。目指すはこの洞穴の最深部である。
「ふむ?」
 ふと違和感を覚えた仁之介は、足を止めて周囲をゆっくり見渡した。
 仁之介の周囲には、いつの間にか周囲には真っ黒な人影が無数に行き交っていた。決して油断はしていない仁之介ではあったが、何時何処から現れたのか全く気配は感じ取れなかった。更に、奇妙なのは彼らの格好だけではなかった。足元は曲面の多い濡れた岩場で、非常に足を滑らせ易い。にも関わらず、彼らは進む時に足音を全く立てず滑るように進んでいた。本当に岩場を滑って進んでいるのかとも思ったが、その割には岩を蹴って加速をつける仕草が見受けられない。
 ようやく仁之介は、自分が普通ではない所へ足を踏み入れてしまったのでは、という不安を覚えた。
 この幻想的な明かりといい、黒装束のふわふわとした者達といい、あまりに現実離れし過ぎている。ここではむしろ自分の方が異質な存在なのではないか、という懸念すら抱き始めた。
 仁之介が不安を危機感へ切り替えるに至るまで、そう時間はかからなかった。だがそれでも仁之介は前進を止めなかった。多少周囲には気を配るようになるものの、依然として前進の意思は変わっていない。仁之介には進まなければならない目的があった。幼いながらも覚悟に近い強い意思を持つ仁之介は、例え身の毛もよだつ恐怖に絡め取られようとも振り切る精神力がある。
 広間のような空洞は数珠繋ぎのように幾つかの空洞が隣り合って続いていた。そんな空洞を三つも抜けた頃だった。不意に仁之介は猛烈な空腹感に襲われた。あまりに唐突な空腹に腹痛に見舞われたのかと勘違いすらしそうになったが、まごうかたなき空腹、それも腹の虫は見る間に勢いを増していく。すぐさま仁之介は風呂敷の中身を思い浮かべるものの、持っていた糒はとうに底をついている。他に食料の類は持ち合わせていない。
 何か食べるものはあるかと、周囲をぐるりと見回してみる。しかしあるのは鍾乳石と地底湖ばかりで、到底食べられそうなものは見つからない。それでも水を飲めば少しはましになるだろうと、早速地底湖へ降りるべく足をかけられそうな地形を探し始めた。
「そこの御侍様。そちらは危のうございますぞ。落ちたらば二度と戻っては来られませぬ」
 不意に崖下へ降りようとする仁之介を呼び止める声が聞こえて来た。
 目を向けると、そこには一人の男が石の上に腰掛けている。皆と同じように頭からすっぽりと黒い布を被っているため顔はほとんど見えなかったが、声の調子からするとおそらくは仁之介より三周りも年上であるようにも思う。だが実際にはほとんど見当もつかない。
「何やら空腹でお困りのようにお見受けいたしますが、宜しければ一つ如何ですか?」
 男の傍らには大きなつづらがあった。男がつづらの中へ手を突っ込み取り出したのは、竹の皮で包まれた握飯だった。
「ここへやってくる皆様全てに差し上げております。どうぞ」
「そうか、では一つ戴くとしよう。恩に着る」
 仁之介は握飯を受け取ると、まるで疑問も無く開いて一口に頬張った。こんな洞穴の奥深くに、どうしてまだ温かい握飯があるのか。差し出したこの男は何者なのか。そして握飯が配られる黒装束達は何者なのか。本来なら真っ先に考えなければならないはずの事ではあったが、空腹に強く突き動かされていた幼い仁之介は頭の中心からそれらの疑問を追いやってしまっていた。
 夢中で握飯を貪る仁之介。そんな姿を男は、心なしか口元に僅かな笑みを浮かべて見つめていた。仁之介が確かに握飯を全て飲み込んでしまうのを見届けなければならない。まるでそう言わんばかりに、しげしげとその様を見つめていた。