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「起きろ、仁之介」
 いきなり首筋へ真剣を当てられたような悪寒、同時に聞こえて来た畏怖の対象たる声に、夢現つの仁之介は弾けるように飛び起きた。一挙動で部屋の隅まで飛んだ仁之介は、壁に掛けてある刀を取り構えようと手を伸ばす。
「何を寝ぼけている。貴様如きの腕で私が斬れるか」
 まだ日も昇らぬ早朝、部屋の中は薄暗くはっきりと自分の足元が見えない。そんな中、部屋の入り口には二つの影があった。一人は堂々たる仁王立ちでこちらを見下ろし、もう一人は廊下で低頭している。
「あ、姉上でございましたか……」
「ございましたか、ではない。寝込みに気づけぬとは、未熟者め」
 暗闇に浮かぶ長身の影が華虎と分かるなり、仁之介は更に緊張しながら刀を壁へ戻した。もう一つの影はこの屋敷の小姓のようである。
「も、申し訳ございません。お休み中のため、お待ちいただくよう申し上げたのですが……」
「構わぬ。下がって良い」
 小姓がおずおずと下がる。しかしその恐れは華虎へ向けられているようだった。華虎は使用人に対して強く当たる事は無いのだが、家臣の誰もが恐れるような人間に対して畏怖の念は抱かざるを得なかった。
「して、姉上。このような早朝に如何な用事で?」
「貴様は上州で遊び惚けていたようだな。今一度、その性根を叩き直してやるためだ。神弥様がお目覚めになるまでの間、相手をしてやる。すぐに道場へ来い」
 そう言って華虎は仁之介の部屋を後にした。すぐさま仁之介は着替えて華虎の後を追い道場へやってきた。道場には既に何名かの家臣が神妙な面持ちで座していた。たまたま華虎が来た事を知り駆けつけたのだろうか、不安の滲む表情で仁之介を見、一礼する。
「構えろ」
 道場の中心に立つ華虎は、仁之介へ木刀を放り投げた。それを受け取った仁之介は、普段とは違う木刀の重さに一瞬たじろいだ。華虎が寄越した木刀は、中に鉄を入れて限りなく真剣の重さに近づけたものだった。当然のことだが、普通の木刀とは違って打たれた時が尋常ではない。打ち所が悪ければ容易に骨など折れる代物である。
 幾らなんでもこれは危険だと言いかけた仁之介だったが、華虎にはそういった理屈は通用しない事を知っていたため、黙って構えるしか無かった。否が応にも緊張が込み上げて来る。戦場で感じるよりも強い、生死のかかる危機感だ。
「来い。私から一本を取ってみろ。取れなければ取れるまで貴様を打つ」
 華虎が構えるのは身の丈よりも長い六尺棒だった。こちらの木刀が鉄心入りならば、あの六尺棒もおそらくは鉄心入りである。とても普通の女性が片手で扱えるような代物ではないが、華虎は一度頭の上で振り回すとさもない仕草で六尺棒を構えた。
 思考を切り替える。
 これまでに華虎と手合わせした時の記憶を掘り起こし攻め手を思案する。しかし未だに一度として勝ち得た事が無い仁之介は、如何にして崩すか程度の戦術しか練る事が出来なかった。後は基本的に守りの一手である。
 まずは懐へ飛び込む事が肝要、自分の間合いならば勝機は幾らでも拾う事が出来るはず。仁之介は木刀を構えたまま真っ向から踏み込んだ。
 しかし、
「うっ!」
 同時に華虎も前へ踏み込み、仁之介の出端に目がけて六尺棒を突き入れた。六尺棒の先端が飛び出しかけた仁之介の喉元に突き刺さる。一瞬全ての負荷が喉の一点にかかった仁之介は、顔を紅潮させながら左手で喉を押さえその場に膝をついた。喉が痛みに痺れ呼吸が満足に行えない。瞬く間に目の前が暗転していく。
「愚か者め。相手に自分の呼吸を読ませてどうするつもりだ」
 身を屈めながら咳き込む仁之介に対し華虎は、六尺棒を頭の上まで振り上げるとそのまま仁之介の背へ振り下ろした。家臣の一人が思わず声を上げる。しかし華虎は手を止めようとはせず、更にもう一度無防備な背を打ちのめした。
「早く立て。榊原の男児が敵の前で膝を屈するな」
 もう一度華虎は六尺棒を振り下ろす。しかし今度は右へ転がってかわすと、木刀を構え直しながら立ち上がった。
 華虎は六尺棒を中段に構える。仁之介は木刀を納めた構えのまま再度華虎に向かって踏み込む。今度は華虎に出鼻を挫かれぬよう、重心を低く沈める。一気に自分の間合いまで飛び込んだ仁之介は、居合いの構えから華虎の脛を狙って木刀を繰り出す。だが、華虎は仁之介が繰り出そうとする右手を六角棒で打ち抜いた。仁之介の右手は抜き放ちかけた形で硬直する。
「愚弟め」
 木刀を繰り出せぬまま、踏み込んだ勢いで華虎に突っ込む形になった仁之介。それを華虎は容赦なく頭を蹴り飛ばす。仁之介は自らの勢いで顔から床へ突っ込みながら転倒した。
「足を払うのは最も難しいと前にも言った筈だ。頭上も致命的な死角、それを自ら敵に晒すなど言語道断。少しは学習をしろ」
 仁之介と華虎の手合わせは、一方的と言って良いほど仁之介がただひたすら華虎に打たれていた。仁之介は姉を相手にしているから手を抜いているという訳ではなく、単なる実力の優劣による構図である。華虎のそれは一般的な修練とは全く異なり、相手を不必要なまでに徹底的に痛めつけるものである。幼い頃から仁之介は華虎に鍛えられているため、正気の沙汰とは思えないこの仕打ちにも体は慣れている。しかし、それを見ている周囲にしてみればとても修練の一環とは思えない、半ば私怨的なものすら込められているように感じられた。
 仁之介は額を割られ顔が真っ赤に染まった。それでも華虎は手を止める事無く平然と仁之介を打ちのめしてくる。その姿に家臣達は、何度も華虎を制止しようと思い立つも、寸出の所でそれを抑え込んだ。かつて止め立てした家臣に対し仁之介が、止め立て無用であるとはっきり明言したからである。
 やがて、仁之介が自らの力で立ち上がれなくなった頃、ようやく華虎は攻めの手を止めた。
「仁之介、貴様は私よりも力も強ければ足も速い。そして何よりも打たれ強くある。にも関わらず、何故私に勝てぬか考えた事があるか?」
「それは単に拙者が未熟が故」
「その通りだ。だが問題なのはそこではない。貴様自身、精進する意志が無い事が一番の問題だ」
「それは姉上、拙者、決してそのようなことは」
「ある。貴様、自分は本多家の勝往殿と互角であると考えているであろう。それがそもそもの思い違いだ。勝往殿は貴様の腕に合わせているにしか過ぎぬ。それに気付かぬお前は互角ならばそれで良いと納得しているのだ。貴様が功を挙げられぬのはその意志の弱さにある。心無くしては技も体も成らぬ」
 華虎の言葉は仁之介にとって非常に辛いものだった。愚か者と罵られる事は茶飯事であるため、さほど気に留める事も無い。だが、他の何者かと、特に友人である勝往と比較される事は屈辱以外の何物でもない。
「僭越ながら勝往殿は……関係ないかと」
「そうだ。榊原は榊原、本多は本多だ。だからこそ妥協をするなと言っておる。何かを基準に比較した強さではない、ただ絶対の強さ、武の頂を目指すのだ。今のお前は武の頂を勝往殿や他の者に重ねているだけにしか過ぎぬ」
 仁之介は反論が出来なかった。華虎が恐ろしいのはともかく、反論の言葉が見つからなかったばかりか華虎の言葉があまりに的を射ていたからである。そんな不甲斐ない自分が情けなくすら思えてくる。
「夜も明けるか。私はそろそろ城に戻る。仁之介、次に会う時は少しは上達した剣を見せてみろ」
 華虎は手にした六角棒を無造作に放り投げた。そのまま六角棒は道場の隅にある掛け物へ収められる。
「貴様は榊原家の嫡男だ。戦国を馳せた剛勇榊原を、我らの代で終わらせるな」
 華虎が去り静まり返る道場内。
 すぐさま家臣達はふらつきながら立ち上がろうとする仁之介の元へ駆け寄った。
「仁之介様、御無事で!?」
「大丈夫だ、大丈夫。既に血は止まっている」
 そう言って仁之介は血に塗れた額を道着の袖で拭って見せた。額からは新たな血は流れては来なかったものの、それだけで安堵出来るような姿ではなかった。体中いたる所に打たれた痣が浮かんでいる。大概の傷は瞬く間に治る仁之介がこれほど多くの傷を残している事は、それだけで火急の事態でもある。
「拙者はしばし休む故、今日の謁見は代理を立てておくのだ」
「承知いたしました。それではお部屋まで、我らが御案内を」