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 時の頃は丑ノ刻。
 すっかり夜の帳が降りた江戸の街は閑散と静まり返っていた。かつては夜通し店を開いていた盛り場も、今では妖魔を恐れて子ノ刻にはどこも暖簾を下げてしまう。実際、妖魔が現れるのは望月の晩だけの事なのだが、天下の徳川家がこうも手を焼かされていては、次は我が身かもしれぬと当然のように不安は募る。最近では江戸から移り住む者まで増えており、江戸が過疎にならないかと紀家の頭を悩ませている。
 仁之介は一人閑散とした通りを歩いていた。手には榊原家の家紋の入った提灯を持ち、足元を照らしながら行き当たりばったりに歩いていく。昼間と同じ、当ての無い散歩である。
 空を見上げれば、弦月の月がぼんやりと雲の間から覗いている。次の望月までもう幾許も無い。ふと思い出した以前の戦での自分の様に強い危機感を持ち、口元をぎゅっと結んだ。
 普段なら就寝している時間ではあったが、今日だけはどうしても寝付けなかったためこうして夜風に当たりに出ていた。今の江戸では夜風に当たりに外へ出るなど酔狂な人間か度胸試しのどちらかの意味になる。夜も出歩けないとは、あの平和な江戸がいつの間にか随分と荒んだものである。
 まるで目的も無いまま彷徨い続けていると、時刻を知らす鐘の音が聞こえてきて仁之介はふと我に帰った。いつの間にか時は寅ノ刻となっていた。
 不意に一陣の風に煽られる仁之介。巻き上げられた埃から目を庇い左腕を顔の前へかざした。だが、梅雨入り前の夜風にしては随分と生温かい。その上、微かだが生臭さも感じる。
「む?」
 風が通り過ぎ、かざしていた腕を戻したその時だった。通りの向かい側から一人の人影がこちらへ近づいてくるのが見えた。
 夜警中の同心だろうか。そう思った仁之介だったが、俄かに漂い始めた言い知れぬ気配に反応し、思わず左手が鯉口を切った。涼やかだった夜風も、いつの間にかはっきりとした生温かさと生臭さを孕んでいる。
「待て。我が名は榊原仁之介だ、そこへ立ち止まり名を名乗れい」
 日ノ本において譜代大名である榊原の名を知らぬ者はいない。そして畏敬を払わぬ人間は極一部に限られている。しかしその影はまるで聞こえていないかのように平然とこちらへ歩み寄って来る。
 問うても名乗らぬその人影を仁之介は提灯の明かりで照らして見た。それは一人の侍だった。だが決定的に人間と異なっているのは、浅緑の魚鱗に包まれた肌と赤々と輝く目と頭頂部から生える角だ。
 妖魔か……!
 すぐさま仁之介は提灯を投げ捨てると、右手を柄に添えて居合いの構えを取った。仁之介の様子に気づいた妖魔は腰の刀を抜き放つと、そのまま上段に構え間も無く突進してきた。
 これは薩摩の二之太刀要らず……? 否、ただの蛮力にしか過ぎぬ。
 仁之介は一言息をつくと、柄に添えた右手を脱力させる。そのまま己の脚力と妖魔との間合いを見定め、一気に踏み込み刀を繰り出した。
 仁之介と妖魔が真っ向からぶつかり合い、そして擦れ違う。次に立っていたのは仁之介だった。妖魔は胴体が腰から二つに分かれ地面に倒れると、そのまま泡を立てながら溶けるように何処かへ消えて無くなってしまった。
「雑魚か。しかし、何故このような所に」
 妖魔は元々、日ノ本に太古の昔から存在する異形である。それらは度々人間界へ現れては悪事を働き、時の武芸者によって退治されて来た。しかしそれも人間社会が栄えるに従って次第に妖魔は姿を消していき、少し前までは姿を見るどころか妖魔そのものを知らぬ者までいたほどだ。
 この妖魔がただの野良であれば、よほどの偶然が起こったという事になる。しかしそうでないとするならば。
「なるほどね、こんな程度じゃ話にならないか」
 突然、宵闇に響き渡る一つの声。人の気配などまるで感じなかった仁之介は驚きながら周囲を見回す。
「ごめんごめん、驚かせてしまったかな。大丈夫、何もしないから安心してよ」
 何処からとも無く聞こえて来る声は、年端も行かぬ少年のものだった。このような夜更けに出歩く子供など普通であるはずもなく、ましてや今の出来事を見ていながらふてぶてしい態度を取るならば尚更である。
「何奴か。我が前に出て参れ」
「こっちだよ、こっち」
 飄々とした少年の声は、あろう事か仁之介の頭上から聞こえて来る。見上げるとそこには一人の少年が浮かんでいた。反射的に仁之介は柄に右手をかける。
「そう殺気立たないでよ。侍ってのはみんな気が短いのかな?」
 少年はさも愉快そうに笑いながら、まるで見えない足場があるかのように空中をぐるりと回り歩く。そのあまりの異様な光景に仁之介は僅かに気圧されかけた。
「何者だ童。貴様も妖魔の一味か?」
「まったく、人の話も聞こうとしやしない」
 呆れたように首を傾げた少年は、不意に宙から滑り落ちて来ると仁之介と同じ地面の上へと降り立った。
「だから構えないでよ。今日はただの様子見さ。望月でなけりゃ、娑婆は居るだけで息苦しいからね。江戸城なんか酷いものだよ」
 刀を構える仁之介を前にも、少年の態度はあまりに軽薄で緊張感がない。確かに事を交えようとする様子は見受けられないが、相手が妖魔となれば話は別である。妖魔は人間にとって敵対する関係である。むざむざここで見逃す理由は無く、仁之介は少年の軽薄な態度を受けても居合いの構えを解かなかった。
「このままで聞こう。童、用件を述べろ」
「だから、ただの様子見さ。僕の配下がいつまで経っても命令を遂行してくれないんでね。一体ここに何が住んでいるのか確かめようと思ったのさ」
 少年の目がぎらりと不気味な輝きを見せる。それは金色に輝く、まるで猫のような目だった。
「童、やはり妖魔か。今し方の妖魔は貴様の手先か?」
「そうだよ。少し侍の実力が見てみたくてね。いやあ、みんなびっくりするほど強いね。そりゃ雑兵を幾ら束ねたって勝てない訳だよ。一人で何十人分の働きをする侍が何人もいるんだからさ」
「その物言い、まさか貴様が妖魔の総大将なのか?」
「君達で言うところのね」
 まさかあの異形の群れを率いているのが、こんなあどけない少年だったとは。予想外の事実に仁之介は驚きを隠せなかった。しかし、すぐさまこれが千載一遇の好機である事に気が付いた。俄かに功名心が沸き起こった仁之介は再び鯉口を切る。これまで全く武功を挙げられなかったが、妖魔の王を討ち取ったとなれば汚名を返上して尚且つ釣りが来る。
「ならば、このままみすみす逃す訳にはいかぬ。その首級、この榊原仁之介が頂戴いたす」
「やれやれ、本当に野蛮で困ったな。ん、榊原……仁之介と言ったね? どこかで聞き覚えのある名前だな」
 不意に妖魔の少年は首を傾げ何事かに思案する。既に刀を抜く気構えの出来ている仁之介にしてみればあまりに無防備な姿である。仁之介は迷わず前へ足を踏み出しながら刀を抜き放った。しかし妖魔の少年を捉えたかと思った刀は、水を斬るかのように体をすり抜けてしまう。驚く仁之介に対し、妖魔の少年はそんな仁之介の表情がさもおかしそうに笑った。
「今日は望月じゃないからね、念のためこの僕はただの幻さ。残念だったね」
 唐突に妖魔の少年の姿が薄まり始めた。件の幻が力を失っていったのである。
「待て、一つ答えてもらおう。貴様ら妖魔は一体何のために江戸城を襲うのだ?」
「襲う? なんだ、君らはそんな事も知らないんだね。可愛そうに」
 そう愉快そうに含み笑う妖魔の少年。しかし仁之介の問いにははっきりと答えようとしない。むしろ、わざと答えずに面白がっているような感すら見受けられる。
「次の望月は本腰入れるから楽しみにしているといいよ。日が落ちたら遊びに行くからね。それから僕の名前は白牙だ。憶えておいて」
 そして妖魔の少年の姿が完全に消えてなくなった。幾ら耳を澄ませ鼻を利かそうと、あるのは涼やかな夜風だけである。完全に妖魔の少年の気配が消えてしまった。仁之介はそっと柄から手を離し構えを解いた。
「白牙、か……」
 何と無しに夜空を仰ぐ。欠けた月と無数の星々が美しく輝いていた。