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 翌日、本丸にある謁見のための御殿では、徳川家各家臣が集められ将軍との謁見が開かれていた。謁見が終わると、そのまま引き続き間近に迫った望月の戦についての打ち合わせが始まった。当日の陣形や備えの状況等はこの場で最終的な取り決めが行われる。旗本達の提案や要望を総括的に酒井家当主である酒井狂次が取りまとめ、徳川紀家が承認する段取りになっている。
「さて、此度の戦であるが。正門及び城壁の修復は終わっておろうな?」
 進行役を務めるのは酒井家当主、酒井狂次。歳は仁之介よりも幾分か上という、旗本陣の中ではかなりの若手である。しかしその才覚は代々徳川家の内政を取り仕切ってきた酒井家でも抜きん出ており、歳に似つかわぬ老獪さには紀家も一目を置いている。その上、狂次は文官でありながら徳川四傑の筆頭でもあり、徳川家臣を総括する役目も帯びている。剣術も出来ぬ人間が武官を取りまとめる事に反発を抱く者は決して少なくは無い。
「万全でございます。全て予定通りに」
「武具の支度はどうなっている?」
「打刀五千本、素槍三千本、鉄砲を二千丁を新たに用意してございます。具足も問題無く」
「御苦労だったな。では、続いて布陣について取り決めを行うとする」
 そう狂次が江戸城の見取り図を広げ始めたその時だった。
「一つ、宜しいか狂次殿」
 仁之介が手を挙げ進言した。
「如何された?」
「拙者、僭越ながら上様のお耳に入れておきたい事があり申す」
 突然の発言に狂次は訝しげに眉を潜めるものの、上座の紀家に視線で問うたところ紀家は無言で頷き返したため仁之介に発言を促す。
「昨夜遅く、拙者は一人城下町を歩いておりましたが、その折の事です。時の頃は寅ノ刻、一匹の妖魔と遭遇いたしました」
「何、妖魔とな?」
 周囲がざわつき始める。妖魔は望月の晩に群れを成してやって来る事が定説となっている以上、何でもない昨夜に妖魔が出るなど普通は有り得ない事だからである。
「幸いにもただの雑魚であった故、即刻拙者が成敗いたしました。しかし今度は別の妖魔が現れたのです。この妖魔は拙者だけでなく、おそらくはこの中のいずれの者も見たことの無い姿の妖魔でござる」
「妖魔に形もなかろう。わしが見た時は実に出鱈目でおぞましい形状であったぞ」
「拙者が見たのは、人間の童とほぼ同じ姿でござる。ですがその目は金色に光り、宙を歩きました。聞く所によると、江戸の侍を見に来たと言うのです」
 更に奇妙な展開を見せる仁之介の話にざわつき始めた。そもそも妖魔など知性の無いただの異形、それと会話するなど軍馬や飼い犬と会話するよりも現実味が感じられないからだ。
「で、成敗したのか?」
「いえ、無念にも取り逃がし申した。ですが、その妖魔は二つほど重大な事を言い残して行きました」
「何だ?」
「一つ、この妖魔は妖魔の総大将であり、白牙と名乗ったこと。一つ、次の望月には本腰を入れるため、日が落ちたならすぐに進軍するとのこと。拙者は此度の戦、これまで以上に慎重に備えを怠らぬべきかと思いまする」
 紀家は扇子を広げ自らを扇ぎながら思案を始めた。長考を始めた紀家の様子を伺いつつ、家臣達は仁之介に疑問をぶつける。
「その白牙と名乗った妖魔は妖魔の王であると、そう申すのか?」
「言葉のみをまともに受け取るのならば。最初に拙者が成敗した妖魔は、その者が侍の力量を計るためけしかけたものでござる」
「仁之介殿、僭越ながらそれは夢の話ではござらぬのか? あまりに荒唐無稽、目撃者も無ければ物証も無かろう。それだけのために物資を増やすのは如何なものか」
 どこか疑るような口調の家臣達。仁之介の話があまりに現実離れしているため、とても俄かには信じられぬといった様子である。元々、仁之介はこれまでの戦において戦功を全く上げていないため、武断派の多い徳川家旗本にとっては侮蔑を受ける対象に近い立場になっている。そこでかくも奇妙な話をされては、誰もが半信半疑で信じようという気を起こす者はなかった。しかし、勝往と紀家だけは深刻な面持ちだった。勝往は単純に仁之介の言葉を疑らないというだけの事だったが、紀家の深刻はどの家臣にも理解出来ない表情だった。
 やがて、しばらく考え込んだ後に紀家はおもむろに口を開き、仁之介に問う。
「仁之介、その妖魔は確かに自らを白牙と名乗ったのだな?」
「左様にございます。年の頃は十二、三の童に見受けられ申した」
「そうか……」
 再び口を閉ざす紀家。
 激しく罵倒するかと思いきや、ただじっと考え込む紀家の意外な反応に家臣達は驚きを隠せなかった。仁之介を徳川四傑に括る事すら疑問視し始めていた紀家が、何一つ証明するものも無い仁之介の荒唐無稽な話を考慮するに足るものとして聞き入れているようにしか見えない。
「江戸に国友の銃工が詰めていたはずだ。蒼十朗、早急に揃えられるだけの鉄砲を用意し鉄砲団を編成しろ」
「承知いたしました」
 井伊蒼十朗は徳川四傑に数えられる井伊家の当主である。蒼十朗は紀家に謁見出来る家臣の中でも最年少、仁之介や勝往よりも歳は下である。だが勇猛果敢な家臣ばかりを重用し、戦では真っ先に妖魔へ切り込む苛烈な戦い振りを披露しているため武功の数も勝往に次ぎ、特に武断派の旗本からは一目を置かれる存在だ。
「それから食扶持の無い浪人も集めろ。遊軍として少しは役に立つであろう。後の問題は、妖魔の戦力か……。勝往、上総から精鋭を幾人か連れて参れ。他の者も出来る限り戦力を補強せよ。望月まで出来る限りの戦力を整えるのだ」
 一同、紀家の指示に畏まり一礼する。
 仁之介はこの状況に安堵していた。自分でも荒唐無稽と思っていたが、紀家が何の疑いも無く信じてくれた事をありがたく思う。しかし、それはそれで不自然さが感じられる。何故、誰もが疑ってかかった白牙の話を紀家だけは信じたのか。しかも白牙の名を確認するように聞き直している。まるで初めから白牙なる妖魔を知っていたかのような口ぶりで。