BACK

 望月の前日。
 江戸城三ノ丸の広場において、前哨戦に位置付けされる御前試合が執り行われていた。出場するのは各家選りすぐりの武人ばかりである。試合形式は、紀家が無作為に選出し決定した組み合わせでの一本勝負、あくまで士気の向上が目的であるためはっきりとした勝敗は決しない場合が多く、また極力相手の身体を打たないよう寸止めにする事を配慮しなければならない。
 本日は計六試合が組まれている。星取表には既に三試合が経過した事を示す星がつけられていた。
 第一試合、蜂屋堂藍対岡部仙介。結果は引き分け。
 第二試合、菅沼庄徹対高木哉市。高木の一本勝ち。
 第三試合、伊奈勘児対水野納蔵。水野の一本勝ち。
 そして現在、第四試合の安藤鍔山対鳥居清兵衛が始まっていた。
「ふむ、睨み合いか」
 高座の紀家はそうつぶやきながら扇子を鳴らす。
 鍔山と清兵衛は互いに間合いの一歩外で木刀を構えたまま動かない。互いに相手の動きに全神経を注ぎ込んでいるため、先に動いた方が剣を捌かれるか受け流されて逆に打たれてしまうからだ。将棋で言う千日手に近い読み合いが続いている中、紀家は扇子を鳴らしながら小さく溜息をついた。このままでは無為に消耗してしまうだけである。もう少し試合の展開を見ていたいが、明日の事を考えれば強行させる理由は無い。これはあくまで士気高揚のための興じ事、腕試しの場ではない。
 紀家は引き分けを宣言すべく、声を張ろうと息を吸い込んだ丁度その時だった。
「父上、やはりこちらにいらしていたのですね」
 本来なら女人は入ってはならないはずの会場に、突然と響いたあまりに場違いな声。
 思わぬ来訪者に虚を突かれた二人は、半ば反射的に相手へ仕掛けた。瞬く間に打ち合った鍔山と清兵衛だったが、清兵衛の木刀が鍔山の額を捉え勝敗はあっさりと決する。
「一本、それまで!」
 行司を務める酒井狂次の宣言に二人は木刀を収め一礼し戻って行く。いまひとつ納得のいかない様子の両者ではあったが、相手が相手だけに抗議も出来ず、また真剣勝負が趣旨ではないためこの場は堪える事にする。
「神弥、女がこのような所へ来るものではない」
 陣を潜り現れたのは神弥と付人の華虎だった。二人はそのまま高座に上がり、神弥は紀家の左隣より一歩後ろへ下がった位置へ腰を降ろす。華虎は更にその後ろへ立った。
「非道いですわ、父上。御前試合のこと、また私には黙っていらしたのですね」
「こういう場は女人禁制と決まっておる」
「女が剣を取ってならぬと仰るならば、せめて見届けるのが筋というものではございませぬか? 私とて、何も剣術が嫌いという訳ではございませんよ」
「……まったく、お前は乙弥と同じ事を言うのだな」
 紀家は溜め息をつき、小姓へ茶を用意させる。
 紀家は基本的に神弥には甘い。女人禁制の場ならば怒鳴りつけ張り倒してでも規則を守らせるのだが、紀家は神弥に対してそういった振る舞いをした事が無い。神弥に一歩踏み込まれたら最後、必ずと言っていいほど紀家が譲歩してしまうのである。
 首尾良く上座に座る事が出来た神弥は、少々はしゃいだ様子で星取表を見た。
「次の試合は……あら、華虎。仁之介ですよ」
「上様と姫のお目汚しにならねば良いかと存じます」
 憮然とした表情で華虎は左手に待機する仁之介の様子を眺めた。
「次の試合、東方は井伊蒼十朗、西方は榊原仁之介」
 名を呼ばれた二人は立ち上がり、中央へと歩み寄る。そのまま一礼し、五歩ほど下がった立ち位置で構えた。
 仁之介の構えは木刀を腰溜めに構える居合。対する蒼十朗は、大小二振りを利き手とは逆に携えた二刀流だった。蒼十朗の特異な構えに紀家だけでなく周囲からも感嘆の溜息が漏れる。
「蒼十朗は随分と変わった剣をお使いになりますのね」
「あの者は井伊家当主でありながら徳川切っての武辺者。その剣は変幻自在と聞きます。おそらく仁之介の剣に合わせて来たのでございましょう」
「刀は二振りあった方が有利なのですか?」
「武芸を多少かじった者は皆そう宣います」
 剣術を時折眺める程度にしか知らない神弥には華虎の言っている事が理解出来ず、小さく口をすぼめ小首を傾げた。
「始めッ!」
 互いの構えが整った所で行司が開始の合図を送る。
 双方共に徳川四傑であるためか、これまでに無い異様な熱気が会場を包んだ。しかし、衆目のほとんどは蒼十朗に注がれていた。世にも珍しい構えからどのような剣術が飛び出すのか、それだけが興味の対象となっている。右の脇差を逆手、左の太刀を順手に構えている事から、右で仁之介の居合を受け切り左で一本を狙うものと推察される。ただでさえ習得が困難とされる二刀流の変形を扱うなど、ましてや御前試合で用いるなど並の技量では到底出来る事ではない。だからこそ蒼十朗への期待感は一層高まるのだ。
 蒼十朗の奇剣に対し、仁之介はその場から一歩も動かず待ち構えていた。それを受けた蒼十朗は、慎重に間合いを確認しながらじりじりと間合いを詰めてくる。蒼十朗は仁之介を動かすべく焦らしに掛かっていた。しかし仁之介は挑発には一切乗らず、ただじっと自分の構えと間合いとに集中し続ける。
 程無くして、突如蒼十朗が仁之介の間合いへと踏み込んだ。仁之介が釣れないと分かるや否や、強襲で切り伏せにかかったのである。初めから蒼十朗との間合いに注意していた仁之介は、その直後に収めていた木刀を抜き放った。仁之介の居合は蒼十朗の右脇腹を目がけて放たれる。だが、蒼十朗はその剣筋を見定めると、右腕を固め脇差で受け止めにかかる。
 しかし、
「ぬっ!?」
 次の瞬間、蒼十朗を襲ったのは脇腹に走る衝撃だった。蒼十朗の体は横薙ぎに崩され地面を擦りながら両膝をつく。表情には驚きの色がありありと浮かんでいた。少なくとも仁之介の剣を受け止めた確信はあったようである。
「一本、それまで!」
 行司の宣言により試合が終わる。星取表には仁之介の白星が付けられた。
「華虎、今のはどうしたのかしら?」
「単に蒼十朗殿が仁之介の剣の威力を受け止め切れなかったためにございます。脇差の根で迎え撃ったまでは良かったのですが、仁之介の剣で最も威力のある部分を受けてしまいました。そのため、ほぼ完全な剣圧を受けてしまいあのような結果に」
「凄いですね、仁之介は。あの一瞬で見極めたのですか」
「いえ、仁之介が勝ったのはただの偶然にございます。蒼十朗殿はあともう一歩踏み込めば受け切れたでしょう。ならば勝敗は引っ繰り返ります。蒼十朗殿があれほど露骨に狙いを見せていたというのに、むざむざ正攻法に出た仁之介は愚の骨頂と言わざるを得ません。これが模擬試合だからと明らかに油断している」
「華虎は仁之介の事となると口数が増えますね」
「……別段、私意はございません」
 にこやかに痛い部分を神弥に突付かれ、華虎は俄かに語気を弱めた。
「神弥様は随分と仁之介如きに気を御留めになられている御様子。あれは私の愚弟なれど、私に気遣う必要はございませぬ」
「いいえ、そうではありませんよ。どうやら私は仁之介に引かれているようですの」
 その言葉に傍から聞いていた紀家の表情が見る間に強張り硬直する。華虎も同様に険しい表情を浮かべた。俄かに殺気だった紀家の様子に、傍に控えていた小姓の顔に緊張が走った。
「神弥様、それは気の迷いにございます。物珍しさとそれとは別物にございます」
「華虎、急に何を慌てているのです? そういう意味ではありませんよ。私でもそのぐらいは分かります」
 神弥は口元を隠しながら愉快そうに笑う。わざと取り違えてしまう言葉を使って皆をからかったようである。
「仁之介はどこか私と似ているような気がするのです。なんでしょう、私がもっと幼い時分にはっきりと感じていたと思ったのですが」
「何かしらを勘違いされておいでです。神弥様が仁之介如きに類似するなど、日ノ本が滅ぶに等しい怪異」
「またいつか、きちんと思い出せたらお話するといたしましょう。父上も心中穏やかでは無くいらっしゃるようですから」
 唐突に指摘された紀家は慌てて平素を装った。
 続く第五試合、大久保団涯対平岩牙六。牙六の見事な巻き込みにより一本勝ち。そして最後の試合、本多勝往対松平龍忠は、衆目の予想通り勝往の圧勝に終わった。
 こうして御前試合は恙無く終幕を迎える。