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 それは正に異例と言っても良い御触だった。
 本日酉ノ刻より、幕府に認められし正当な理由無き者は一切の外出を禁ず。
 これまでの妖魔騒ぎの影響から江戸の町人は自ずと夜間の外出は控えるようになっていたのだが、酉の刻と言えば宵の口、こんな時間帯に外出を禁じるなど尋常な御触では無い。そのためか、俄かに江戸中が流言蜚語で溢れ返った。どれも幕府に対する批判的な内容で、中には江戸が妖魔に滅ぼされるとの風説を真に受けて江戸を離れた豪商まで出てくる始末だった。
 異例の御触は昨日にも出されている。それは腕に憶えのある人間を招集する内容だった。戦国から久しく行われていない兵の徴用である。元々徳川家の旗本はいずれも劣らぬ武功派ばかり、あえて食扶持に困窮している牢人まで召集するのは戦の旗色が悪いからではないかと、実しやかに噂されている。こういった背景からも、幕府に対して不安感を抱く町民は急激に増加していた。
 望月の朝、仁之介は辰ノ刻より本丸にて紀家と謁見の後、家臣との謁見の場で戦に向けての最終調整に入った。榊原家が布陣するのは、江戸城正門前一帯。妖魔が真っ先に攻め入ると思われる場所である。ここの防衛を共にするのは、鳥居清兵衛が率いる鳥居家家臣団。驚く事に清兵衛が真っ先に志願していた。付近には井伊家の遊撃部隊が分散して布陣しており、戦況に応じて柔軟な援護が受けられる態勢ではあるものの、蒼十朗は独断の行動が目立つため、あまり期待は出来そうにない。
 その日の仁之介は普段にも増して神妙な面持ちで、日長道場に座したままほとんど動く事は無かった。昼食にかけ蕎麦を一杯食した以外はただじっと瞑想し精神を研ぎ澄ます。しかし時折苛立だしげに目を開けては床を叩いていた。
 今、榊原家が置かれている状況は二つの意味で深刻である。これまでの妖魔との戦で一つとして武功を挙げていないこと、そして此度の戦は最も危険とされる場所に布陣している事だ。華虎より叱責を受ける事はそれほど恐ろしい事ではない。恐ろしいのは、自らの失策や力不足から家臣をあたら失うこと、そして榊原家が今の領地を取り上げられ遠方へ転封されてしまう事だ。榊原家の嫡男として心の留め所が見つからない。武功を挙げるためには、家臣を失う事を恐れてはならない。だが、それが榊原家の反映に繋がるかは甚だ疑問である。徳川家の初代将軍は、小大名の時分から家臣の声を聞き大切に扱ってきたからである。
 日が傾き、道場には茜色の光が差してきた。
 ふと、道場に小姓が現れる。
「失礼致します。上州より仁之真様が参られました」
「父上が? すぐこちらへ御通しせよ」
 予想外の来訪者に驚いた仁之介。せっかく鎮めたはずの雑念が再び頭の中へ解き放たれてしまった。
 間も無く小姓に案内され一人の中年の男が道場へやって来る。男は非常に小柄で顔色も悪く、腰に差した刀が重そうに見えた。
「しばらくだな、仁之介。元気そうで何よりだ」
「御無沙汰しております、父上。主君の一大事とあっては、上州にも戻れずにおりました故。無沙汰の非礼、御免あれ」
「良い。徳川あっての榊原だ。それにこれまでの経緯は聞いておる。お前も随分と苦労をしているようだ」
「恥ずかしながら、榊原の名を汚しております故」
「華虎の言い草であろう。あれも誰に似たのか、困った女子だ」
 そう笑う仁之真だったが、その勢いで咳き込んだ。生まれつき胸が弱いため、あまり呼吸に負担のかかる事が出来ないのである。
「本日は如何なされた? 今宵、江戸は戦場になりまするぞ」
「知っておる。それで何かの助けになろうと与力を十ほど連れて参った」
「かたじけのうござる」
「どうせ名ばかりの当主だ、このぐらいはせねばな。我が父、仁兵衛殿に枕元へ立たれ怒鳴りつけられる」
 仁之介の祖父である榊原仁兵衛は、領地に出没した野盗討伐の際に不慮の事故で出陣出来なかった事がある。生涯の出陣がその一回限りであったため、己の不甲斐なさを恥じながら他界していた。
 再び咳き込む仁之真。最初よりも咳の出方が激しい。
「父上、御加減は宜しいのでしょうか?」
「長旅で少し疲れているだけだ。それよりも少し腹が減ったな。お前は何か食べたか? 戦の前は湯漬けを食すのが戦国からの仕来りぞ。誰かおるか! 湯漬けを持って参れ!」
 仁之真は榊原家の当主ではあるが、生まれついての病弱さのため武官として活躍した事は無い。榊原家は武断派の家柄であるため、酒井家とは違い文官の当主など本来ならば有り得ない事だった。そのため仁之真は様々な重圧に見舞われたそうである。生まれつきの病弱さに加え心労が重なっていては、快方へ向かう事など一度として無かった。
 仁之介は仁之真と膳を向かい合わせ湯漬けを食べ始めた。食卓を共にするのは久方ぶりの事である。
「此度の戦、厳しいのか?」
「榊原は負けませぬ。拙者には屈強な家臣と、それから……榊原の仁王に師事した剣があります故」
「そうか。ならわしは、屋敷にてお前の活躍を見守っていよう」
 本来なら仁之真こそ戦場に立って榊原家を指揮しなければならない立場にあるが、健康上の理由より仁之介に任さなければならない。仁之真はそれを顔には出さずとも心では不甲斐なく思っている。この妖魔騒ぎも同じで、主君を守るべく戦いに馳せ参じられないのは恥でしかない。だから、かつて自分が受けたのと同じ重圧を与えていると分かっていながらも、己が果たせぬ思いを仁之介に託さずにはいられなかった。
「父上、姉上には会って参られぬのですか?」
「あれはわしの手には負えぬさ」
 そう顔を見合わせ笑う親子。二人共々、華虎には手を焼かされていると言いたげな様子である。
「仁之介様ッ!」
 その時、二人の笑い声を切り裂くように鎧具足をつけた侍が駆けつけた。
「物見より、上空に禍々しき光ありとの事! 御支度を!」
「うむ、分かった」
 仁之介は立ち上がると神座に飾っている刀を取った。
「往くのか」
「はい。武名の誉れ、ご覧にいれましょう」
「お前の武運、祈っておるぞ」
 仁之介は仁之真に一礼し道場を後にする。その後姿を仁之真は無言で見送った。そして、誰も居なくなった道場で周囲をゆっくり見渡し、小さく溜息をついた。