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 時の頃は夕七ツ半。御触により江戸中の町人が家に戻る頃である。
 仁之介は江戸城正門の前に本陣を構えた。そこには共同戦線を張る鳥居清兵衛の姿もあった。榊原隊と鳥居隊それぞれの兵は合わせて千騎を越えるほど。正門を防衛するには到底十分とは言えない数ではあるものの、戦国の世が終わり兵を集める事が困難となった今となっては異例とも呼べるほどの数である。
 榊原も鳥居も歩兵中心の部隊構成となっていて鉄砲は一丁も所有していない。鉄砲は江戸城で最も重要な本丸の防衛に集められており、後は弓兵か井伊家鉄砲隊からの援護に頼る他無い。そんな戦力的にも非常に苦しい状況である。
 空には暗雲が立ち込め、これまでの日の長さがまるで嘘のように早くも夜が訪れ始めている。陣内には篝火が焚かれ兵達を橙色に照らし出していた。
 見上げた空には、水に落とした墨にも似た暗雲と、時折稲光のように輝く赤紫の光が差し込んでいる。無音の稲光ほど不気味なものはなく、いよいよ妖魔が江戸城へ攻め入らんとする緊張感に誰もが震えていた。
 仁之介は鳥居清兵衛と共闘するのは初めてではない。妖魔との最初の戦の時も仁之介は清兵衛と陣を同じくしている。その時の清兵衛は味方が総崩れになりながらも最後まで戦い通したという武勇を残している。早々に敗走した仁之介にとっては、まさに武士の鑑とも言うべき姿である。
「日も暮れぬ内からこの変異、やはり此度の戦は仁之介殿の申した通り、一波乱ありそうですな」
「敵も夜が来るまで待ち遠しいと見える。夜明けまでの時間がこれまでよりも長くなります故、長期戦は避けられませぬ」
「されど、長丁場と知っていながら一番槍を得られるこの場所に立てることを誇りに思いましょうぞ」
 正門前は妖魔軍と真っ先に交戦する場所である。ここに布陣するという事は、ほぼ死兵とされるのも等しい。布陣を決定したのは酒井狂次である。ここに榊原を布陣したのは間違いなく、限りなく捨て駒に近い意味での事だろう。
「仁之介殿、一つお訊ねしても宜しいか?」
「どうぞ、清兵衛殿」
「妖魔とは一体何ぞや? そう、在り来たりな問いにござる。仁之介殿は先日、妖魔の王と会ったと申されましたな。それまで拙者は、妖魔とは世にはびこる悪意や陰気が溜まり異形の姿へ化生したものと思っておりました。しかしながら、妖魔に王がいるという事は、妖魔の世界には身分の上下、主従関係が存在するという事になるのではなかろうか? そう、正に我ら侍と同じように」
「されど、拙者にはほとんどの妖魔には人間らしい知性は感じられませぬ。むしろ、一人が思考を持たぬ傀儡の軍を作り上げたように思えますな」
「陰陽道でござるか。しかしながら、あれは単なる目眩ましにしか過ぎぬもの。妖魔には事実幾人もの家臣が食われておる」
「思い返せば、我々はまるで得体の知れぬものと戦っていたのでござるな」
 妖魔は主君に害を為す敵、それが故に我ら侍は命を賭して戦う。ほぼ全てと言って構わないほどの侍がこの価値観を持って戦に参じている。そこには一片の疑問も入り込む余地も無く、ただ盲目的に主君のため敵を討ってきた。妖魔は人間ではないばかりか、言語も理性も思考も無いただの怪物、だからこそ侍同士が戦った戦国とは違って人道を留め置く理由が無かった。剣を振るう事に歯止めを欠ける理由が無いのだから、侍達の思考は一層停止する。
 妖魔とは何か。どこから現れ、何故望月の晩だけなのか。一体何を目的として江戸城を襲い徳川家へ弓を引くのか。刃を交える敵について何も知識が無い。それは戦う理由が主観でしか存在しないという事でもある。侍にとって妖魔など野を駆ける獣程度の存在でしかないのだ。
 不意に仁之介は、白牙と名乗ったあの妖魔の言葉を思い出した。白牙は、妖魔が江戸城を襲う理由を訊ねた仁之介を哀れんでいた。まさか自分達は盲目的に戦うあまり、何か決定的な事を見落としているのではないか。もしくは、それを知らぬままただ忠義を貫いている姿を白牙は哀れんだのだろうか。
「実の所、拙者はもう一つ、疑問に思う事があり申す」
 ふと清兵衛が神妙な表情を浮かべた。
「拙者、先月の戦にて損壊した箇所を修復するべく家臣に監督をさせていたのだが。その折に何ぞ奇妙なものをそこかしこで見つかり申した」
「奇妙なもの?」
「神道の魔除けの札で大神実命としたためられておった。伊邪那岐が黄泉の亡者にぶつけた桃の化身のことじゃな。その札が、城壁やら何やらの裏側にびっしりと敷き詰められておった」
「神弥様は上様の大事な一人娘にあらせられるが故、魔除けもまた親心でありましょう」
「しかし、拙者は解せぬのだ。実は札が古くなっていたため普請奉行に確認をしたのだが、なんと札の事は一切知らなんだそうだ。本当に知らぬのかとぼけているのか、どちらにしてもおかしな事とは思わぬか? 親心ならば何故秘匿する必要があるのか」
 俄かに語気を強める清兵衛。そう強く詰め寄られると、確かに仁之介にも疑問に思えてくる事だった。子供の息災を願うならば敢えて隠す理由はない。ましてや、世に広く知らしめる事で何かしらの話題作りにもなり紀家の心象を良く出来る事である。魔除けの札など、どこの家にも普通にあるもの。それが城ならば沢山あった所で何ら不思議ではない。主君を疑るつもりは毛頭無いものの、確かに疑問に思うことである。
「何故このような話を拙者に?」
「さて。虫の知らせか、死ぬ前に言い残しておかねばと思うてな。仁之介殿ならば死ぬ事はあるまいて、必ずや皆にお伝えして戴きたい」
「何を不吉な事を申されるか」
 突然、仁之介の声を遮るように半鐘の音が鳴り響いた。
「敵だ! 妖魔が出おったぞ!」
 物見が力の限り振り絞る声が周囲に響く。周囲は俄かに色めき立ち、次々と鎧の擦れる金切り音が聞こえて来る。
 すぐさま二人は陣を飛び出し敵影を見た。
「な、なんだあれは……」
 正門前の外堀が普段とは様子が異なる。よくよく覗き込んでみると、そこには全身を黄金色の具足に包んだ兵の群れがひしめいていた。妖魔の軍団が遂に現れたのである。
「仁之介殿、いよいよですな」
「上様に忠義を見せる好機でござる」
 ここぞとばかりに意気込む仁之介。だが、清兵衛は微苦笑を浮かべるだけで呼応しなかった。