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 江戸城天守。
 江戸城を構成する建物の中でも最も高いそこは、平時であれば御目通りのかなう高い身分の人間しか立ち入る事の出来ない場所だった。本来の天守は物見櫓、敵を視察するためのものであるが、天下を平定した今となっては攻め入って来る敵もいないため、城下を見下ろすという権力の象徴でしかない。
「始まりましたね……」
 神弥は覗き窓から江戸城下を見下ろしていた。正門の前には無数の妖魔の兵士が群がっている姿が見られる。余にもおぞましい異形の軍勢ではあるが、神弥は厳しい表情をしつつも目を背ける事無く戦模様を見ていた。
「この戦、勝つのはどちらでしょうか?」
「無論、徳川にございます。徳川旗本には妖魔如きに遅れを取る弱卒はおりませぬ」
「ですが……私は妙な胸騒ぎがしてならないのです」
「御心配召されますな。戦は男共の仕事、私達はゆるりと構えただ任せておけば良いのです」
 華虎がそっと触れた神弥の肩は驚くほど冷え切っていた。外から入り込む生暖かい風で華虎は額をじんわりと湿らせているものの、神弥は今にも震え出してしまいそうなほど凍えている。
 不意に、天守に鉄砲を携えた大勢の兵が駆け上ってきた。その一団の中には酒井狂次の姿もある。
「なんと姫様、このような所におられたのですか? 華虎、早急に奥へお連れするのだ。ここは戦場ぞ」
 高圧的な物言いに華虎は一度眉を引きつらせるものの、そっと目を伏せて一礼し神弥と手を繋いで促した。
「さあ、姫様。奥へ参りましょう。こちらは危のうございます」
「ええ。皆さんもどうか御武運を」
 神弥は華虎に手を引かれながら天守を後にする。そのまま中奥へ入り大奥へ向かう。華虎は神弥よりも歩幅が広く、神弥は歩を早めなければついていく事が出来なかった。普段なら華虎が神弥へ歩みは合わせるのだが、今は急事だからなのかむしろ華虎の方が神弥を引っ張ってくる。
「華虎、どうしてそんなに怒っているのかしら?」
「そのような事などございませぬ」
「私の手、そんなに強く握られると痛いのですけど」
「えっ? あっ、これは申し訳ございません。とんだ御無礼を」
 慌てる華虎に神弥は微笑んだ。普段は冷静沈着な華虎が狼狽する様は滅多に見られるものではない。華虎はばつの悪いの表情を浮かべつつ、神弥の手を優しく握り直し尚も大奥へと急ぐ。
「あの男、酒井狂次を御覧になりましたか?」
「ええ、狂次は譜代大名の筆頭ですからね。此度の戦も指揮を執るそうですよ」
「私はああいう男が好かないのです。剣も出来ぬ軟弱な文官如きが武士を語るなど図々しいにも程があります。今宵の布陣も馬鹿げているとしか言いようがありませぬ。そもそも天守から狙撃など、うつけとしか言いようが無い。豆鉄砲を使うぐらいならば大筒を用意すればよろしい。それを江戸城の美観を損ねるからなどと戯けた事を」
 珍しく語気を荒げる華虎に神弥はきょとんと瞬きをする。
「華虎は榊原が最前列に置かれた事を喜んでいたではありませんか。功を挙げる機会が人より恵まれると」
「それはそれだけにございます。後は素人も同然。所詮、酒井など内政しか能の無い人間でございます。榊原や鳥居も捨て駒にせず、真っ当な援護を出来れば良いでしょうが期待は出来ぬでしょうな」
「華虎は仁之介が好きなのですね」
「御戯れを。私は榊原家の立場を考えているのです」
 そう、と短く答え神弥は口元を綻ばせ微笑む。自分の言葉をそのまま受け取っていないと思った華虎は、なんとも複雑な表情を浮かべ眉間に皺を寄せる。
 城内は誰もが忙しなく行き交い、いつになく物々しい雰囲気に包まれていた。神弥は未だこれほど多くの鉄砲を目にした事も無く、否応にも戦の緊迫感を肌で感じてしまう。しかしそれも中奥までで、大奥へ入れば普段の静けさに満ちていた。普段なら床へついているはずの時間に皆が起きているのも、何か楽しい行事でも催しているかのような感覚がある。神弥はそれを皆の自分へ対する気遣いと何となしに察していた。
「姫様?」
 ふと突然、神弥の手を引く華虎の手があらぬ方向へと引かれた。振り返ると神弥が俯きながら足元をふらつかせていた。すぐさま華虎はもう片方の腕を伸ばし倒れぬよう体を支える。
「大丈夫です、少し立ちくらみを起こしただけですから」
「しかし顔色が優れませぬ。私が奥までお運びしましょう」
 華虎は神弥の体を軽々抱え挙げ大奥へと急いだ。
 妖魔が望月の晩に現れるようになって以来、神弥は決まって体調を崩していた。神弥は幼少の頃は病弱だったものの、一度高熱で生死を彷徨ってからは健康そのもので今日まで過ごしている。体調を崩すのも妖魔の妖気に当てられたか過度の緊張による精神的なものであろうと医者は見解を出しており、事実翌朝には神弥は何事も無かったように起きてくる。やはり妖魔の存在が何らかの影響を及ぼしていると考えられるが、それでも同じような症状は神弥以外には見受けられていない。
「華虎は強いですね」
 華虎の腕の中でそう神弥は囁いた。
「私は武家の女でございますから。特に榊原は男子が軟弱者ばかりであります故」
「私も華虎のように強くなりたいわ」
「高貴な身のお方がそのような事をされる必要はございませぬ。私は神弥様の懐刀、必要な時に抜いて頂ければそれで良いのです。さあ、奥へ参りましたら葛湯でも用意させましょう。一息ついてゆるりとされればお加減も良くなりましょう」
 華虎は神弥を無闇に揺らさぬよう気を配りつつ大奥へと急ぐ。ようやく中奥を抜けた時、不意に大奥から現れた紀家と鉢合わせた。突然の遭遇に驚く二人は視線を合わせたまま一呼吸の息を飲む。
 紀家は葵の家紋が入った具足を身に着けた、おおよそ大奥には似つかわしくない格好だった。その上、明らかに着慣れていないぎこちなさが全身から感じられる。
「こ、これはどうしたと言うのだ!? 大奥に姿が見えぬから探してみれば、これは一体!」
 華虎の腕に抱かれている神弥の姿を見て、落ち着き無く声を張り上げる紀家。そんな狼狽した様子の紀家に、神弥はそっと頭を起こした。
「少々立ちくらみを起こしただけですわ。それなのに華虎が大げさにこんな事をするのですもの」
「とにかく、奥で休むのだ。すぐに医者も呼ぼう。何かあっては事だからな。それから甘酒でも用意させよう」
「父上は華虎と同じ事をおっしゃるのですね」
「わしにとってお前は生き甲斐そのものだ、心配もして当然の事よ。だから神弥、早く元気な笑みを見せておくれ」
「嫌ですわ、お父様。私は十分元気ですよ?」
 紀家のうろたえ方は尋常ではなかった。おそらく家臣でこのような姿を見た者は極僅かだろう。それだけ紀家は神弥を大切に思っているという事なのだろうか。