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 榊原隊だけでなく、徳川旗本陣はいずれもただならぬ勢いがあった。蒼十郎を凌ぎ、驚くほどあっけく残った巨大妖魔の内ひとつを討ち取った榊原隊は、未だ僅かに残る妖魔の兵の掃討にかかった。あれほど手強かった妖魔を打ち散ったため、兵達の表情は強い自信に漲っている。初め妖魔の集団戦法だけでもあれほど苦戦した事が嘘のように、怒涛の勢いで次々と踏み潰していった。
 敷地内の妖魔を残らず討ち取ると今度は城外へと躍進する。巨大妖魔を足がかりにして敷地内に入り込んでいた妖魔の兵は、今は唯一開門している正門からしか入り込む事が出来ない。そのため、正門近辺には未だ数多くの妖魔が群れており、重点的に掃討していかなければならなかった。敷地内の各所に配備されている各軍も、酒井狂次の采配により戦力の大半を正門近辺へと集中させた。妖魔の兵は未だ無尽蔵に何処よりか現れては江戸城へ進軍するものの、士気も十分で屈強な徳川旗本陣が集結している正門を突破出来る理由も無く、次々と返り討ちに遭っては土へと還っていった。
 時刻を知らせる鐘の音が聞こえて来る。時刻はようやく夜八ツとなった。夜明けまでおよそ一刻、既に四刻に渡って戦い続けているが、この戦も夜明けが来れば終わりである。妖魔の勢いも朝が近いためか少しずつ衰え始めていた。各軍にも余裕が出来始める。
 前線まで軍を連れてきた狂次は、戦況の確認のため巡回を始めた。重傷者の回収や疲弊の度合いからの陣形の調整など、軍を指揮する立場にあっては未だ役務は無くならない。
 榊原隊の元へやって来た狂次は、これまでとは比べ物にならぬ活躍を見せる榊原隊に訝しさと驚きとが入り交じった表情を浮かべた。普段なら叱責の一つも見舞う所だったが、比度だけは叱責する点はおろか称賛にすら値する戦い振りであり素直に認めるしかない。
「ようやく実を結んだか。もう夜明けまで僅かだが、まだ気を緩めるな」
「しかと心得ております。されど、もはや勝ちは決まり申したな。後は出来る限り兵を失わぬようにいたしましょう」
「そうだ、これ以上はただの無駄死にだ。後はゆるりと構えておればそれで良い。一旦我らと幾つかの部隊は後退する。比度は負傷者が多く朝まで待ってはおられぬし、何より兵を正門へ集中し過ぎたせいで上様の守りが手薄になっているからな。ここの指揮は勝往に任せてある。何かあれば指示を仰げ」
「かしこまりました」
 酒井と幾つかの部隊が城へと戻って行く。酒井狂次は旗本の中でも珍しい文官の侍である。そのため戦では前線に立つ事は無く、常に大局を見て采配を奮う役目を負っていた。文官というものは最後尾で守られるだけの立場であるため、元来武官にはあまり評判が良くない。狂次もどちらかと言えば嫌われ役が多かったが、純粋に戦局しか見ようとしない武官には出来ない支援を次々とこなしてゆく手腕は一部から高く買われている。徳川四傑筆頭の立場にあるのも決して序列からではない。
「仁之介殿、御無事で何よりだ」
 入れ替わるように陣中を訪ねて来た勝往は、全身を覆うようにまとった大鎧を妖魔の血で汚しているものの、いつもの如く傷一つ負ってはいない。頬当てを外し現れた顔は汗でぎらつきながらも戦勝の心地良さがありありと現れていた。そんな勢いもあってか、仁之介の肩を叩く力にはまるで加減がなく、鎧をつけない仁之介は思わずその痛みに顔をしかめ苦笑いする。
「勝ち戦で不覚傷を負うのはもう止めにした故。それに、これ以上の醜態を重ねれば今度こそ姉上に手打ちにされ申す」
「ハハッ、華虎殿とてそこまで鬼ではあるまい。それより此度の戦は榊原も大きく活躍された。華虎殿もさぞや誇らしかろう」
「相も変わらず勝往殿は姉上に何か幻想を抱いておる御様子。拙者はどのようにして免じてもらうか、それで頭が一杯だというのに」
 仁之介のおどけた困窮顔に釣られ、勝往は体躯に見合った豪快な笑いを見せる。傍らでそんな二人のやり取りを聞いていた兵達も口元を押さえながら笑っていた。戦場だというのにこれほど和やかな雰囲気にあるのは、既に勝敗が決してしまったと誰もが確信しているからである。日の出も近く、妖魔の勢いは初めに比べ明らかに衰えて来ている。しかし自分達は非常に士気が高まっており、普段以上の力が振り絞れるほど活気づいている。ここから敗北する展開など到底考えられない。
 日の出を前に早くも安堵すらしていた、丁度その時だった。
 不意に上空に立ち込める暗雲の隙間から眩しい光が走った。続いてぽつぽつとにわか雨が降り始める。朝方に夕立がやって来たのだろうか。誰もがそう不思議に思いながら空を見上げると、もう一度真っ白な閃光が暗雲の間から閃いた。
「ふむ……一雨来そうでござるな」
「夜明けまでは持ちそうにもないが、戦局に影響は無いであろう」
 ほぼ決した勝敗が揺らぎさえしなければ、何が起ころうとも大した問題ではない。雨も雷も戦況を左右する重要な要素ではあるものの、この状況を引っ繰り返すには至らぬものである。これが名の知れた知将を相手にしているならば警戒もしようが、頭数と生命力だけが取り柄の妖魔が相手ではまるで気に留める必要も無い。
 しかし、
「むっ!?」
 そう声をあげた勝往。
「如何がされた?」
「今し方、落ちましたぞ。すぐ近くでござる」
 仁之介は落雷の音を全く聞いていない。しかし、仁之介はすぐさま表情を引き締める。
「皆の者、警戒せよ! 新手の妖魔ぞ! 伝令! 全ての兵に向けて警戒令を出すのだ!」
 大声で叫び焦りを露にする仁之介。勝往は仁之介の様子に目を丸くしていた。
「何事か、仁之介殿。ただならぬ御様子でござるが」
「感じませぬか? この禍々しい妖気……」
 仁之介の右手は既にぶるぶると小刻みに震えていた。それは決して怖気づいた訳ではなく、無意識による警戒の現れである。しかし勝往は妖気というものが理解出来ず小首を傾げるものの、仁之介の只ならぬ様子に自らも気を構える。
 仁之介はこの気配に憶えがあった。だが、ここまで圧倒的なものではなかったはず。少なくとも、心臓を直接掴まれるような威圧感は感じなかった。
「出ますぞ、勝往殿。ここは我らでなくては押さえられませぬ」
 兎にも角にも自らが出なければ話にならない。そう言わんばかりに仁之介は、勝往の返答も待たずに陣を飛び出した。よく状況の把握出来ない勝往だったが、仁之介の言う事を確かめなければ始まらず、まずは仁之介の後を追う。
 前線では既に戦闘はほとんど行われていない。極端に減った妖魔の数と勝利を確信する兵の余裕からか、ある程度武功を得た者は保身を考え積極的に戦う事はしない。そんな隙間だらけの戦場を仁之介と勝往はひたすら走り抜けた。最前線を越え、妖魔すらいない広場までやって来ると、そこに一つの人影を見つけた。見るからに細く小柄な輪郭は、その正体がまだ年端もいかない子供である事が見て取れる。
「童か? このような所に何故。まだ夜明けには早いというのに」
 待ち受けていたものがあまりに拍子抜けするようなものであったため、勝往は小さく溜息をついた。しかし仁之介は、闘志をむき出しにして体を半身に構え抜刀の体勢を取った。感じ取っていた妖気の濃さが遂に頂点に達したためである。
「止まれい! 此処から先、一歩たりとも進ませる訳にはいかぬ!」
 到底、子供相手に侍がするような口調ではない。だが、暗闇から聞こえて来た声は気圧されているどころかあまりに無邪気だった。
「ははっ、わざわざ出迎えてくれるなんて感激だなって思ったんだけど。これはまた随分な挨拶だね」
 暗闇から現れた一人の少年。それは弦月の晩に見たものと相違無い姿だ。
 少年は軽薄に笑いながらも緩く構えた姿勢で二人を見やった。その目は金色に輝く猫目。思わぬものを見せられた勝往は驚きに目を見開き、すぐさま反射的に大槍を構える。
「まさかあの童……が?」
「妖魔の王、白牙でござる」
 緊張する二人を前に、白牙は悠然と立っていた。徳川を代表する武人を二人も相手にしているというのに、臆するどころか見下してすらいる不遜な態度である。
「あ、君は前に逢った榊原の。で、もしかしてそっちのは、本多のかな?」
「如何にも、拙者が本多家当主、本多勝往でござる」
「井伊や酒井は? それから鳥居に蜂屋に安藤に奥平。他にもまだまだ邪魔者はいるけれど、とりあえずみんな江戸城にはいるんだね?」
「それを知ってどうなる。無意味な事が故」
「無意味じゃないさ。今夜の僕の目的は、邪魔者を出来るだけ減らす事だからね」
 白牙はにやりと意味深な笑みを浮かべる。淡い月明かりに照らされ金目がより不気味に映し出される。一回りも年下のような風貌の白牙、にも関わらず少しでも気を抜けばあっという間に飲み込まれてしまいそうな迫力があった。これまで戦ってきたどの妖魔よりも強く恐ろしい存在である。
「戯言を。貴様一人で徳川旗本陣を全て相手にするおつもりか」
「まったく、侍というのは愚かだね。僕を誰だと思っているんだか。それに、こっちは初めから釣るつもりだったんだよ。ああ焚き付けておけば、きっと馬鹿みたいに戦力を集めてくるだろうってさ。それぐらい、僕は自信があるんだよ」
 不意に白牙の全身が白く光を帯び始める。それは白い稲妻だった。白牙自身が白い稲妻を服のように纏い発光しているのである。
「さあ、僕は一足先に行かせて貰うよ。君達は後からゆっくり来るといい。それまでに用事は済ませるからさ、徳川四傑だっけ? まとめて相手にしてあげるよ」
 そう言い残した白牙の体は刹那、まるで閃光のような速さで二人の間を駆け抜けた。白牙の体は矢よりも速く、一条の稲妻のように戦場を駆け抜ける。そしてそのまま正門の方角へ、瞬く間に消えてしまった。
「いかん、城が危ない!」
「本丸を死守せねば!」
 慌てて反転する仁之介と勝往。しかし既に正門の方角からは不穏な爆発音が聞こえていた。